「思ったより遅かったね」
「…すみません」
海亀とどんぱちやりあったそれから、結局野兎が鴛鴦を訪ねたのは一刻ほど経ってからだった。
次の潜入任務の場所が場所であるだけに、野兎はこれから鴛鴦に着物の着付けを手伝って貰うことになっていたのだ。既に用意されていた派手な柄の着物を見て、鴛鴦には気付かれないように、野兎は少々顔を顰めた。
「何で遅くなったのか訊いても?」
「影になっているからと油断して川で行水していたのがいけませんでしたね。しっかりばっちり任務帰りの蝙蝠に覗かれていたので、沈めて来ました」
「蝙蝠が?それならあたしを呼んでくれれば良かったのに」
「ありがとうございます。でも鴛鴦さんが来ちゃうと蝙蝠が可哀相なことになってしまいます」
「同情いらないわよ」
その言葉が真剣に辛辣そのものであったことに、野兎は空笑いを返して、用意されていた着物を再び見遣る。
紅と黒を基調とした、また随分と派手な着物である。少なくとも野兎はこのような着物は着たことがなかった。着たいと思ったこともない。
「まぁ、花街だからねぇ」
野兎の考えを見抜いたのか、苦笑とも取れるような曖昧な笑みを浮かべた鴛鴦は言う。
「あはは、ま、自分で受けた任務ですから、いいですけどね」
軽い調子で返した野兎だったが、気が重いことは否めない。
しかし、言ったように仕方のないことではあるのだ。
任務の都合上、こちらは女のしのびを用意しなければならない。そこにそれなりの腕がつくとなると、大分数が限られてくるのだ。
狂犬は何分目立つ見掛けであるし、鴛鴦にはいくら任務とはいえ花街に行けとは言えない。野兎のためなら、と鴛鴦は代わってくれようとしたが、野兎自身がそれを拒んだ。それはいくらなんでも、蝶々が可哀相である。
華奢で、長く綺麗な髪を持っている喰鮫辺りが行けばいいと思わないでもないが、この前それとなく持ちかけてみたら『私は男に媚を売る趣味はありません』ときっちり断られた。くそう、任務とはいえ実際に客を取ったりしないとはいえ、野兎だって男に媚なんか売るのは嫌だというのに。
「、そういえば」
「鴛鴦さん、これだけは言わせてください。私は『野兎』です」
「…ああ、そうだったね」
「どうして皆私のこと野兎って呼んでくれないんでしょうね…、新参者だから?うぅむ」
「いままで呼び慣れてた名だからね、『野兎』に変わったっていっても、皆順応できてないんだと思うわ」
「真庭忍軍に途中から入ったからはぶかれてるっていうのは?」
「ないない」
鴛鴦の言葉に、野兎は安心したようにへらりと笑った。
鴛鴦にはその野兎の姿がまるで自身の妹か何かであるかのように見える。
――だから、尚更であるのだ。
鴛鴦は着物を着るのに四苦八苦している野兎を手伝いながら、以前から抱いていた疑問を野兎に投げかけた。
「ねぇ、あんた、今好きなやつとかいるの?」
「ごふっ」
むせ返ったところで、野兎は以前も同じようなことがあったと頭の片隅で思う。
鴛鴦の方を向けば、鴛鴦は意味有り気な笑みを浮かべてそんな野兎を見ていた。
「大体見当はつくけどね」
「…、っな…!そ、それはちが…」
「多分あたしの予想、あってると思うんだけど」
「わわわわかんないですよ!」
「じゃあ当ててあげようか?」
「ぎゃああ駄目です駄目!」
「冗談だよ。…で、ほら、完成」
どたばたやっていたはずなのに、気が付けば野兎の着物はしっかりと着付けられていた。
思っていたよりも軽い着物である。鴛鴦が配慮してくれたのだろうか。
「似合ってるよ。今回は任務だけど…たまにはちゃんとお洒落しなきゃね」
きょとんとしていた野兎の表情にも、やがて笑顔が戻った。
傍から見れば、二人は本物の姉妹のようにしか見えなかっただろう。
09.02.06
10.04.09 加筆・修正
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