「海亀さん、ちょっと稽古付けて貰えませんか」


縁側で涼んでいた海亀の前に現れた野兎の、第一声がそれだった。


「…随分と急な話――また何故だ?」
「はい、私、明日から任務がありまして…、潜入なんですけどね、どうやら敵さん方に、武芸に秀でている輩が混じっているそうな。何せ久方の実践任務ですし、腕が鈍っていないかと…」
「それが何故わしなのだ。他にもいるだろう。喰鮫然り、蝶々然り…ああ、鴛鴦もおるのだったか」
「喰鮫さんにお願いしたら、『丸一日何でも言うことを聞いてくれたらいいですよ』なんてのたまったので沈めて来ました!蝶々どのと鴛鴦さんはいちゃいちゃして間にすら入っていけません!」
「…であろうなあ」


どちらの光景も、海亀にはすぐに想像できたのだろう。
それ以上は何も言わずに、海亀はやや面倒そうに立ち上がった。


「なるほど、それではおぬしが最高格好よくて最高いかした最高強い最高もてもて最高金持ちのこの海亀に声を掛けたというのも、道理というわけだ」
「そ、そうですね…」
「団子10本で手を打たんでもない」


最高金持ちならけちけちすんなよ!と野兎は思わないでもなかったが、海亀が目上の忍びで、そして野兎は仮にも稽古をつけてもらう側であるので、此処は口を閉じておく。
野兎のその言葉を受けた海亀は、愉快そうに笑って続けた。


「当然のことだ、おぬしもわかっておるだろう」
「ですよねぇ。それじゃあ、団子は任務が終わってからで」


いいですか、と続けようとした口は、すぐさま閉ざされる運びとなった。
ひゅん、と風を切る音が聞こえて、野兎は咄嗟に顔を逸らす。
カカッと小気味のいい音がして、見れば背後の木に数枚の手裏剣が刺さっていた。


「…いきなりですか」
「なに、卑怯卑劣が売り。油断している方が悪いのだ」
「それは忍者の教訓です」
「今回の任務に関係がないとも言えんだろう」
「……まぁそうですけどね、相手が忍でないとも言い切れませんし」


野兎がそう返答したところで、海亀はひひ、と可笑しそうに笑って、海亀は腰に差していた刀を抜いた。
刺突剣。
いつ見ても妙な刀だと、は思う。
形状も使用法も含めて、妙な刀だ。
身構えていたところで、海亀が再び笑いを零した。
奇妙に思った野兎が、怪訝そうに海亀を見たところで。


「痛いのが嫌ならやめてもいいが」
「いや、冗談でしょう」
「そうであろうな」


同時に、ひゅん、と風が鳴った。
否、完全な同時ではない。海亀は、最後の台詞の途中で刀を突き出した。
――今度の攻撃は、やや危なかった。
先程のことがあったから注意を払っていたとは言え、速度を伴って突き出された剣先にひるんだのは事実だ。
ぴりりとした痛みが目尻に奔る。あと一寸遅ければ、目玉をやられていた。


「…――」


そして、ようやく野兎は刀を手に携えた。それは日本刀の類ではなく、懐にさえ仕舞えるような、そんな大きさの脇差だった。
脇差を内側から忍装束の帯に挟んでいた野兎は、刀を包んでいた懐紙を取り払い――そして抜いた。


「所作が遅い」


目を細めて、ずっと野兎の動作を見ていた海亀がそう口を開く。
けれどそれに相反するように、野兎はにこりと海亀に笑ってみせただけだった。


「いえいえ、これでいいんですよ」


完全に刀を抜ききるまで、かなりの掛かった。一尺ほどの刀を抜き切るには、遅すぎる。いかに不慣れな剣客だろうと、日本刀を抜き切ることにこれほどまでは掛からないはずだ。
けれど、野兎にとってはそれも計算の内である。
それからの動作は速かった。風を切る音すら聞こえない。気が付けば目の前にいるかのような、それ程の素早さで、野兎は間合いを詰める。
海亀が咄嗟に投げたくないも全て弾き、野兎は海亀の目の前でぴたりと止まった。


――しかし、そう見えたのすら、錯覚であったのだ。厳密には野兎は動きを止めてなどいない。その小さな右手に、脇差をしっかりと握って、


「忍法・円転流」


ぼそりと、そう呟いた。
――が、その忍法が発動することはなかった。
ほとんど条件反射と言っていいだろう。海亀はその場から飛び退き、近くの木へと着地した。
暫くの膠着状態後、ようやくその状況に気付いたという風に、野兎は口を開いた。


「…あ、やられた」
「そういうことになるな」
「そんな高いところに登らないでくださいよ」
「ふむ、策の内だ」


海亀のその言葉を頭の中で噛み締めたところで、心底残念そうに、野兎は脇差を元あった場所へと戻した。


「その忍法、何せ時間が掛かり過ぎる。その点は何とかならんのか?」
「これでも時間は短くなった方なんですよ。この時間は発動条件みたいなところもありますし、多分これで限界ですね。…あーあ、負けちゃったかぁ。やっと海亀さんに勝てると思ったのに」
「100年早いわ」
「やっぱりこの忍法がいけないのかなぁ…当たればでかいんですけど、一度見破られちゃうと、どうにも」
「だがまぁ、実践として使うには申し分あるまい。わしは予めその忍法を知っていたから勝ちを得たに過ぎんのだ――なまじその辺の輩では、相手にすらならんだろう」
「随分と買ってくれますね」


あはは、と笑って、野兎はひらりと踵を返した。
肩越しに振り返って海亀を見――再び笑顔を向けたところで。


「これから鴛鴦さんと任務の準備をするので、水浴びして来ます。今日はありがとうございました。団子はその任務が終わってからでいいですよね?」
「ああ、構わん」


海亀も、彼女の笑顔を受けてか受けずか、その口元は緩やかな笑みを浮かべていた。




09.02.05(海亀さんとはほのぼの期待!…って思ってたのに、予定が狂った感じがする…)
10.04.09 加筆・修正