「何してるんですか、さん」
「私は野兎だよ…もうこれ訂正すんの面倒になってきたよ、蜜蜂くん」


野兎は座敷にいた。
ただひとり、文机に向かっている。
そしてその机上には、山ほどもある巻物が積み上げられていた。


「見てわかんない?」
「何をしているのかはわかりますが、どうしてそんな事態になっているのかまでは…」
「じゃあ教えてあげよう。私はね、先日夕日があまりにも綺麗だったので、ちょっとそこの川原で涼んでいたんだよ。そしたら蝶々どのと出会ってね、ついつい話し込んでしまったんだ。…そう、自分の仕事も忘れてね」
「…それは…」
「そうさ、そうともさ!案の定、此処に帰ってきたら鳳凰さんが待っていた!滅茶苦茶良い笑顔でね!私は今までこの方、あの人のあんな良い笑顔を見たことがなかったよ!」


うわああ、と机に突っ伏してみせる野兎に、蜜蜂はただ乾いた笑いを漏らす他なかった。なるほど、それで今日一日は謹慎で、しかもいつもの責務の倍の量をやらされているというわけだ。
鳳凰どのの笑顔というのには少なからず興味があったが、それはとても恐ろしいものであったことに違いはなさそうなので、それ以上の詮索は留めておいた。
暫くその様子のままの野兎を見ていると、不意に彼女はがばりと起き上がった。
思わず、びくりと肩が震える。


「で、だ。蜜蜂くん」
「は、はい」
「手伝ってくれる気はありませんか」
「正直なところ、ありません」
「ですよねー…」


はぁあ、と再び机に突っ伏した彼女の沈みように、蜜蜂は可笑しいような感覚がして、くすりと笑みを零す。


「…構いませんよ」
「ほんと!?やったあ!」


諸手を挙げて喜ぶ姿は無邪気のそれにすら見えて、蜜蜂は自身の胸の奥がほこりと暖かくなるのを感じた。
野兎が少しだけ横へ移動し蜜蜂が座れるだけの空間を用意する。蜜蜂の背丈が大きいために、それは仕方なしに狭いものだったが、そんなことは気にしていない様子の野兎がぽすぽすと自分の隣の座敷を叩く。


「蜜蜂くん蜜蜂くん」
「はい、なんでしょう」


野兎のすぐ近くまで来たところで、彼女のその声に蜜蜂は足を止めた。


「この作業が終わったらさ」
「終わったら?」
「君の首にあるそのもさもさをもふもふさせて欲しいんだが」
「……」


呆れて声が出ないわけでは、ない。
――…また随分と、大胆な。
野兎は蜜蜂がこうして自身に好意を寄せているということを知らないのだから、特段意識しての発言ではないのだろうが。
しかし、蜜蜂側としては死活問題である。
やけに親しげな彼女の口調も、両手を顔の前であわせて、『お願いです』などと言う彼女の姿も見ることが叶うのは、まぁ恐らくこの真庭忍軍の中でも自分くらいのものだろうが、
――…それも、『後輩』として、なんですよね…。
そう考えてしまうと少しだけ切ないような寂しいようなそんな気持ちになったが、しかし蜜蜂は見かけに寄らずしたたかな面も持ち合わせていたので、野兎のこの申し出を断ることはなかった。




*




「……お、おわった…っ!」
「…ああ、終わりましたね…」


しかし、それは作業が全て終了したという意のものではなかった。
野兎の目の前にある巻物に、黒々とした染みが見受けられた。
作業途中にうっかりとうつらうつらしてしまったのが悪かったのだ。結果、彼女は墨汁がたっぷりと染みこんだ毛筆を、巻物の上に落としてしまったわけで。


「…こ、これは先輩の顔を立てて、君が鳳凰さんに叱られてくるべきじゃあないかな…ね、蜜蜂くん」
「いやいやいや、僕は微力ながらのお手伝いしかしてませんから、この失敗の大部分はさんによるものだと思うんですけど…」
「嫌だよ私殺される」
「大丈夫ですさんなら殺されません」


こうして野兎は再び、限りなくいい笑顔の鳳凰とあいまみえることとなったのだった。




09.01.26(これでUターン!)