野兎はひとり、川原で口笛を吹いていた。
川原といっても、今の所の真庭の拠所である領内のそこにある川原であるから、そこまで大きなものでもない。しかし、こうやって沈む夕日を見ながら涼むことには、その場所は申し分なかった。
何をするわけでもない、この時間が、野兎にとっての憩いである。
「ん、か?」
「『野兎』ですけどね。誰です?」
最早反射的にそう返してから、口笛を吹くのを止めた野兎は声を掛けられた背後を見遣った。
そこに立っていたのは、背丈の小さい男である。手に団子の載った皿を持って野兎を、土手のところから見下ろしていた。
「ああ、蝶々どのですか。いやしかし、貴方から見下ろされるというのは妙な気分ですね」
「喧嘩売ってんのか?」
「いえいえ、滅相もありませんよ。それより、どうです、降りてきません?」
にぱ、と上を見て笑った野兎に、蝶々は溜息をひとつ零したものの、土手を降りて彼女の隣に腰を下ろした。
野兎は夕焼けに染まった草の間に体を傾け、やや仰向けに寝転がっているようにも見える。横にやってきた蝶々を見て、彼女はにやりと口の端を歪めて笑った。
「いいんですか、来ても。鴛鴦さんに後で何言われるかわかったもんじゃないですよ」
「降りてこいって言ったのはお前の方だろ。それに、鴛鴦もそこら辺はわかってるから構わねぇよ。寧ろ此処でお前を無視したって方が殺されちまう」
鴛鴦は随分とお前のことを気に入ってるからな、とそう付け足して、軽く笑った野兎に手にした団子を勧めた。
差し出された皿に手を伸ばしたところで、野兎は一度、何かを思い出したかのようにその手を止める。
「あれ、これってもしかして鴛鴦さんのために買って来たんじゃないんですか?」
「何ですぐに鴛鴦に繋げるかね…、…そーいうお前も、今日は喰鮫と一緒じゃあねえのか?」
「どうして私があの人と一緒なんですかごめんなさい意味がわかりませんてかすみませんちょっと黙ってくれません」
「よっぽど嫌なんだな…。いや、最近お前、いつも以上に追っかけまわされてたからよ」
「もう嫌なんです…どうしたらいいですかね、あの変態…」
「まぁ頑張れよ。俺は知らねえ」
恨みがましく見つめてくる野兎を蝶々は笑って流し、改めて手にしていた団子を勧めた。今度は野兎も素直にそれを受け取り、三つ連なった球のひとつを、その小さな口に含む。
「美味しいです…」
「そりゃ良かった」
夕日は静かに沈んでいった。
09.01.24 ← ■ →