「成程、それでぬしはそのようにくたばっているというわけか」
「別にくたばってはいませんけどね…でも、くたばってしまった方が多分きっと楽です」
野兎はまだ真新しい香りのする畳の上で寝転がっていた。
否、寝転がっているというよりは、蟷螂の言ったとおりくたばっているといった方がこの場合正しい表現なのかもしれない。
喰鮫にさんざ追い掛け回された挙句のことだった。
逃げ回る途中で出会った鳳凰になんとか時間を稼いでもらい、野兎は此処まで逃げて来たのである。鳳凰が今喰鮫の相手をしているだろうから、今暫くは匿ってもらおうと思って、野兎は蟷螂のいるところまでやってきたわけで。
「まぁ、そういうことであれば致し方ない」
少々苦い顔をしながらも、蟷螂は野兎を匿うことを承諾した。
「感謝します…蟷螂どの」
今にも潰い消えてしまいそうなそんな声が哀れを誘う。こんな状態で来られれば、断る方が難しいだろう。
「しかし、喰鮫のあれも困ったものだな。何故ぬしにこうまで執着するのか…とんとわからん」
「…大方、草食動物を狩る肉食動物の心持なんじゃないですか…」
はぁ、と野兎が吐いた溜息は、若い彼女がしていい類のそれではなかった。
その年でどんな苦労をしているのだ、と、蟷螂はそんな野兎を不憫に思わざるを得ない。
蟷螂は、うつ伏せに倒れたそんな彼女の頭を軽く撫でた。
「そんな撫でやすい頭してますかね、私…」
「……あぁ、ぬしはこれを嫌うのだったか」
「いえ、蟷螂どのとか、鳳凰さんとか、白鷺どのとかはいいんですけど…、…蝙蝠とかにやられるのは、見下げられているようで腹が立ちます」
ちなみに喰鮫さんの場合は殺意を抱きます。
最後に強い口調で付け足された野兎の言葉に、喰鮫も随分嫌われているものだと、蟷螂は苦笑する。まあそれも奴は嫌われることをわかっていてやっているのだろうから、同情の余地もないが。
「蟷螂さんのことは好きですよ」
唐突だった。
実に唐突である。
唐突にそんなことを言われて、驚かない男がいるのだろうか。
正直、いきなりのその言葉に、さしもの蟷螂も面食らった。
野兎の方を見れば、その様子から特別な意味は含まれていないことは理解できるが――
「…見境もなくそのようなことを言うな、野兎」
「見境はあるつもりですよ…まずの基準として、私のことをちゃんと『野兎』って呼んでくれることが条件です」
へらり、と疲れた表情で笑ってみせる野兎。
ああ、これで悪気がないのだから性質が悪い。
蟷螂は思った。
純粋に野兎に好意を寄せている蜜蜂なんぞに、彼女がぽろりとそんなことを漏らしてしまえば、どうなることか。
――しかし、まず恐怖の対象であるのは『あの人』であるのだが。
もしこの場での自分と野兎の会話を『あの人』が聞いていたとすれば、それはもう恐ろしいことになりかねない。
確か喰鮫を足止めしているのだったか?だとすれば、今回の会話は聞かれてはいないだろうが…
そのとき、不意に野兎ががばっと起き上がった。
「…来る…」
「は?」
思わず妙な声を上げた蟷螂だったが、野兎がそれに反応することはなかった。
「どうやら足止めもこれ以上は無理みたいです…しかし充分に体力は回復できました。感謝します、蟷螂どの!」
「あ、あぁ…」
では、と浅くお辞儀したところで、野兎は何かを指揮するかのように、二本指を振った。
その後に彼女の姿はなく、自慢の忍法でも使ったのだろうと、蟷螂は嵐のように去って行った彼女に短く息を吐き出した。
その5分後には、またもや喰鮫に追い掛け回される野兎が発見されたとかされなかったとか。
09.01.03(理解者は白鷺さんと蟷螂さん)
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