「かのんてっやだま」


屋敷の一室だった。
そこが何処にあるのかはともかくとして、その広い敷地面積には袖のないしのび装束の者たちがそれなりにいたから、そこは真庭忍軍の拠点のひとつと見て間違いないだろう。
そのひとつの部屋で、文机に向かって黙々と筆を動かす、ひとりの忍びの姿があった。


「白鷺どの…」


げんなりと、明らかに疲れの蓄積しているであろうその顔を、背後へと向ける。その視線の先には、天井から逆さまにぶら下がる、ひとりの忍びの姿。とりあえずこの場に存在する忍びは、彼女と彼の二人だけだった。


「ぁなよるすとこぇ酷も奴の蝠蝙。にうろだいいもてくなけ付し押でま事仕の分自も何」
「ごめんなさい、何言ってるかわからないのですが…、しかしでも蝙蝠を貶める発言が聞こえた気がするので、ここは頷いておきます」


別に貶めたつもりはないのだが。
白鷺は、彼女の発言は流すことにした。そして彼女のその顔を再び見る。此処で香でも焚いてやれば、あっという間に寝てしまうだろう。そんな顔をしていた。他人の目から見てもそう思えるくらい、野兎の疲れは表情に出てしまっていたのだ。


「よれ張頑ぁま、っくっくっく」
「ごめんなさい、やっぱり何言ってるかわかんないんですけど…」


頑張ります、彼女がそう呟いた分にはこの二人、意思疎通が出来ているらしかったが、
しかし、その呟き声も、彼女の頭が机の上に墜落したことで、最後まで声にはならなかった。


頭が落ちるのは当然である。
今まで支えとしていた腕から、頭が滑ってしまったのだから。


「なよたし音い良ぇげす今…」


そんな凄まじい音を伴って机に突っ伏した彼女は、覗き込めばすっかり寝息を立ててしまっていた。


まぁ、無理もないだろうな。


眠ってしまった彼女の頭をぽんぽんと優しく撫で(これを彼女はとても嫌うが)、とりあえず、今回の分の仕事についてはもう心配しなくてもいいようにと、白鷺は墨汁に突っ込んだままの筆を取り上げた。
いくら面白いからと言って、あんまり無茶はさせるな。そう蝙蝠に言っておかなくては。ああ、それから鳳凰どのにも報告せねばなるまい。


暫くは彼女にも休暇を――とまではならないだろうが、せめてもう少し楽な仕事を、と考えたが、しかし次の予定だけは既にもう決まってしまっていることを思い出す。
重要な役目だ。それだけで重いというのに、その同行する相手が、…。


もう少し頑張れ。


頭の中だけでそう考えた。
せめて、後で香だけでも焚いておいてやろうと、白鷺はさらりと筆を動かしたのだった。




08.12.25