ひゅう、と風が唸った。
静かだ、
夜の暗がりに呑まれてしまいそうな黒い衣服の彼女は、誰に言うでもなく独りごちた。
そんな闇のなかで、首に巻かれた紅い八尺手拭だけが静かではない。
彼女は、流れる風と同じような吐息を、ひゅうと漏らした。
――此処で、合ってるよな。
眼下に見えるのは、ひとつの屋敷と広がった敷地。今までにもこのような類の家は多々見てきているので、それを基準とするならば、それなりに大きな家。
此処、どうやら廻船問屋であるらしいのだが。
この店の主人を、暗殺してほしいとのことだった。
彼女は店の主人が如何様な人物かをしらないし、全くの他人であって、こうしてしのびの者の立場がなければ、恐らくは一生関わり合いを持たないような相手ではあるのだが、
こうして依頼され、それを引き受けた以上、私はそれをまっとうせねばなるまい。
仮令、それが怨恨だったとして、嫉妬だったとして、ただの跡継ぎ狙いだったとして、
それに見合った金があれば、真庭忍軍は動くのだ。
風の音が耳に響く。
夜の屋敷は、尽く人気がない。
さて、そろそろ出向こうか と、高い木の枝から飛び降りようとしたときだった。
「なーに怖気づいちゃってるんだよ、子猫ちゃん?」
ずるっ
彼女は華麗に足を滑らせた。
「おあああああああああっ!」
落下してゆく。落下してゆく。
地面に激突しそうになったその瞬間で、風がひゅるりと鳴いた。
ぶらん、とただ無力に垂れ下がる両足。
両手は、しっかりと太い木の枝を掴んでいる。
心臓、ばくばく。
「何してくれとんじゃー!蝙蝠ー!!」
上に向かって叫んではみたものの、それが彼を叱咤するものであったかどうかは、言うまでもなく、だった。
そんな声を出していたら気付かれるだろ馬鹿野郎、と言いたくなるような甲高い声で、蝙蝠は笑う。いや、こちらの声の方が大きかったか。兎も角、さも可笑しそうに。いや、確かに茶番であるのだが。
口を尖らせながら、彼女は跳躍した。そして一気に、彼のいる枝のところまで。
「これで死んだらどうしてくれんだ、ばかやろー…」
「こんなんで死ぬんだったら、死んだほうがいいに決まってるじゃねーか」
「む」
「油断しすぎだっつーの」
きゃはきゃは、再び愉快そうに笑って、蝙蝠は彼女を見た。
悪いことをしたのは絶対的にあっちなのに、何故こっちが説教されなきゃならない。しかも、謝罪の一言もなしかよ。
ぶつぶつと恨みがましく文句を漏らす彼女の頭を、ぽすっと軽く撫でたところで、蝙蝠はその細い身体を木の幹に預けた。
「で、。本題だけ…」
「『野兎』だっ!」
彼女の口から飛び出した名と、牙を剥いて威嚇する彼女の姿は、全く持って対を成すものだったのだが。
それでも彼女『真庭野兎』は、そんな些細なことは気にしていない様子だった。
「んな面倒なこと気にすんなって」
「気になる」
「なんで」
「気になるから気になる」
「きゃはきゃは、滑稽じゃねえ?」
「滑稽じゃない!」
再び牙を剥いた彼女に、蝙蝠は再び短く笑った後、それはさて置き、そう切り返した。
「あそこの問屋の主人」
「ん?」
「もう殺しておいたから」
「はああああっ!?」
予想外の言葉に、彼女は混乱の表情を隠せなかった。
「なんで、なんで、なんでっ!」
「あんたトロトロしすぎだし」
「そもそもっ、なんであんた此処に居っ!」
「きゃはきゃは、邪魔しに来たに決まってんだろ?」
「じゃっじゃあじゃあ、私のしごと、は」
「事後報告?だけじゃねえ?」
「こ、この野郎ーーーーーっ!!」
掴みかかった彼女を、蝙蝠はひゅっと風を切って交わすと、にまりとした笑みをその口に浮かべた。
「じゃ、俺はこの辺で。ちゃんと帰って来いよ」
巻き上がる風と砂埃に、彼女は思わず目を細めた。
気が付けば、彼はもういない。
「瞬身はもっと離れてやれコノヤローっ!!」
叫んだ声は、空の彼方に響いただけだった。
その大きな声に、眠っていた廻船問屋の奉公人達が目を覚ましたいうのは、また別の話。
08.12.12 ■ →