夜風は心地が良かった。
林の、木の上に腰掛けていた野兎はゆるりと目を細めた。
今日は少しだけ風が強いな、と思ったが、それでもこうして静かな場所での夜風、この雰囲気がとても好きなのだ。
「捜したぞ、野兎」
不意に掛けられた声に、野兎は一瞬驚いたが――
――声の主を目にして、体の緊張は解けた。
見慣れた姿が、そこにあったからだ。
「鳳凰さん」
鳳凰は、すたん、と軽い音を立てて野兎の隣へと降り立った。
「捜した、って…、…あれ?私、仕事さぼりましたっけ?」
「いや、そうではない。今日は珍しく途中で抜け出さなかっただろう」
「珍しくって…まぁ、そうですけど。じゃあなんで捜してたんです?」
「お前の姿が見えなかったからな」
それだけの理由で此処まで来たのか。
まるで保護者だ、と野兎は思い、そんな鳳凰を想像して思わず笑いそうになる。
連れ戻しに来たのかと野兎は思ったが、鳳凰は野兎の隣から動こうとはしなかった。戻れと促すでもない。どうやら、野兎が帰るというまでは此処にいるつもりのようだった。
そんな鳳凰の姿を見て、野兎は思った。
――真庭忍軍に来たときから、何も変わってはいない。
まるで私の保護者のような、そんな立ち位置から、私の中で彼が揺らいだことはない。
初めてこの人に会ったのは何年前だっただろうか。あまり覚えていないのだけど、それでもそれなりの年月は経っているはずだった。
その間、一度として。
「……」
野兎は月を仰ぎ見た。残念なことに、綺麗な満月ではない。やや欠けたような形が、時折雲の端に隠される。そんな月を見ながら、野兎はただ懐古していた。
鳳凰にはとても感謝している。ひとりで雇われしのびなんてやっていた自分を、他人の汚いところばかりを見てきてそれしか知らなかった歪んでいて荒んでいた自分を拾ってくれた鳳凰には、感謝しつくしてもしたりない。
先日、一緒に団子を買いに行った人鳥との会話が、ふと頭によみがえった。
「心酔、かあ」
その言葉については、野兎にも思うところがある。
傍から見れば、それは心酔であるのかもしれない。
けれど主観で言うならば、それは心酔というよりは、執着と表現した方が型に嵌っていると思う。
「あ!」
「なんだ?」
「この前は簪、ありがとうございました!前々から言おうと思ってたんですけど、言いそびれちゃって」
「あぁ…お前が一度失くしたあの簪か」
「う…っ」
宴会のときのことを言っているのだと、野兎にはすぐにわかった。
やや引き攣った笑みを浮かべると、鳳凰は少しだけ可笑しそうに息を漏らす。
「気にするな」
「ど、どっちのことを言っていますか。簪をくださったことなら気にしないわけにはいきません。一度失くしたことならお言葉に甘えます」
「どちらもだ」
「うあ、そう来ますか」
じゃあどっちにしよう、などと呟いて考えるように夜空を見上げた野兎を、鳳凰は何も言わずに見ていた。
不意に、鳳凰の手が動いた。滑るように動いた鳳凰の手は、野兎の頭にのせられる。それは何の前触れもない突然のことだったので、野兎は驚いた後、不思議そうな表情を浮かべた。
「…嫌がらないのだな」
「まぁ…もう諦めてる節がありますからね」
「昔は全身全霊で拒んでいたんだがな。野兎というよりは、猛虎と呼んだ方が正しいくらいに威嚇していたか」
「猛虎って…そんなに凶暴でしたっけ…」
「それだけ丸くなったということだ、、お前はな」
丁度先程まで昔の雇われしのび時代を思い出していた野兎は、その鳳凰の言葉に対して『そうですか』と短く返そうとしたのだが、その言葉は鳳凰の言葉を脳内で咀嚼した際に飲み込んでしまった。
「って、何それとなくそっちの名前で呼んでるんですか!『野兎』ですよ!」
「大差なかろうよ」
「あります!真庭忍軍の頭がそう呼んでたら、皆真似するじゃないですか!」
「真似などする間もなく皆そう呼んでいるように見えるのだが」
「…気のせいですよ」
「――」
野兎の言葉はきかず、鳳凰は尚そちらの名で野兎を呼んだが。
けれど、その言葉の雰囲気を察せないほど、野兎は疎くはなかった。
文句を言いかけたその口を噤み、鳳凰の次の言葉を待つ。
「お前は、ここへ来て良かったと、そう思っているか」
何を言っているのだと、野兎はそう思った。
鳳凰は続ける。
「昔のお前と今のお前は違う――昔のお前は、しのびというよりは堅気の人間に近かった。考え方も、他人を殺すときの目も。それがどうだ、今では立派なひとりのしのびであろう。
――生きて死ぬだけの、ただのしのびだ」
鳳凰の鋭い目が、真っ直ぐに野兎を見つめていた。
「それでも、お前はここへ来て良かったと、そう思えるか」
もし。
もしもここで、野兎が『いいえ』と答えたならば、鳳凰はどうしただろうか。
真庭忍軍から出て行けと言うのだろうか。
いや、それとも、自分はここで殺されるか。
後者が正しいような気がした。野兎は真庭鳳凰を知っている。彼がそれ相応の独占欲に似たものを持ち合わせていることも、知っている。
――くだらない、とそう思った。
そのようなこと、考えるだけくだらないのだ。
野兎の中で、の中で、答えは迷う余地すらなく存在しているのだから。
「私は此処に来れて、幸せですよ?」
にかりと快活な笑顔を浮かべ、野兎はそう答えた。
「…そうか」
野兎のその言葉を受けた鳳凰は、短く笑うように、そう言った。
その鋭いはずの目はとても普段のそれとは違うものだった。
例えるならそう、まるで愛しい者に向けるような、そんな優しさを帯びて、いて。
「そうですよ。鳳凰さんにはとても感謝してるんです。兄上と呼んでもいいくらい、大好きなんですよ」
「兄か…」
「あ、何か不都合でも…」
「いや、夫でも構わんと思っただけだ」
「!!ななな何を仰ってっ!」
そう、此処へ来たことを後悔するようなことは、一度としてない。
過去にも今も、これからも。
そうしてただただ、夜は更けていった。
09.02.12(完!)
10.04.09 加筆・修正
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