、無事か」
「はい、ちょっと掠っただけですから」

鳳凰さんの言葉にそう答えて、私は腕にできた真新しい傷の少し上を押した。毒の類が使用された形跡はないから、放っておいても問題はないだろう。
鳳凰さんの大きな手が背中に当てられた。忍び装束を通した先にあるのは、まだ塞がったばかりの大きな傷口だ。
私は、小さく笑って、大丈夫だということを鳳凰さんに伝える。今となっては、上体を深く捻ったときに多少引きつるくらいだ。
目の前の鳳凰さんは怪我をしているなんて様子もなく、それどころか返り血ひとつ浴びていないようだった。
その姿に安堵して、私が少し緊張の糸を緩めたときだった。

鳳凰さん目掛けて、手裏剣がひとつ飛んできた。
私はそれを、咄嗟に伸ばした脇差しではじき返す。きぃん、と夜に響く音が鳴って、手裏剣は代わりに床に突き刺さった。
私はその凶器が飛んできた方向に向かって、自分もまた同じく手裏剣を打ち出した。けれど、それが的に当たることはない。軋んだ木の壁に突き刺さる音が耳に届いて、私は小さく舌打ちする。

「放っておいたところで差し支えはない。行くぞ、

今すぐにでも駆け出しそうな私を諫めるように、鳳凰さんは言った。私が手裏剣をはじかなかったところで、鳳凰さんは結局傷のひとつも負いはしなかったのだろう。
私は口を噤んだ。私ではなく鳳凰さんを狙った一撃が、気がかりで仕方なかったからだ。…いや、というよりは、頭にきた、という表現の方が正しいかもしれない。

不意に、鳳凰さんの目がどこかを指した。

鳳凰さんがそこへ視線を向けた意図を察して、私は小さく息を吸った。その先は屋根板の上を通ってきたわけでもない私たちの、最終目的地である。





そっと開け放した襖の先に、座した一人の小さな男がいた。直接顔を見るのは初めてだったが、何せ半年間もの付き合いだ。半年間、私を使って汚いことをやってきた男だ。その男が思ったよりも好々爺のような風貌だったので、寧ろ意表を突かれたのはこちらのようだった。
襖を開けたのが己の部下でないと悟ったらしい男は、けれど私の予想に反して、思ったよりも表情を崩しなどしなかった。拍子抜けと言えばそうである。

「私のこと、わかりますか」

何も言わない男に、私はそう尋ねた。よもや、今まで殺そうと画策していた者の顔を知らないなんてことはないだろう。

「も、勿論、わかっている。…此処まで来た理由もな」

男の声は、僅かばかり震えていた。
それを聞いて、私は安堵する。相手が、思いの外普通の人間だったということに、だ。何人殺して何人見殺しにしてきた男でも、自分の死期が近づけば、それに恐怖するようにできているらしい。
今の私の瞼の裏には、まるで温度というものが感じられなかった。

私はこれから、この人を殺す。
きっと、それでいいんだろう。それがいいんだろう。
私は、持っていた脇差しを構え直した。

そのときだった、目の前の小さな男を庇うように、ひとつの黒い影が降りてきた。
影はその手に刀を握り、こちらへ突進して来る。
交錯の途中、目が合った。
そのしのびは間違いなく、人殺しの目を持っていた。
視線がぶつかった瞬間、まるでそれが鏡に映った自分の目のように感じられて――気分が、悪くなった。
私はその体躯を脇にいなして、その通り過ぎた背中に脇差を突き刺した。

「こんなことが…許されるとでも思っているのか?」

どうと倒れたしのびを目の前にして、それが私に対する牽制のつもりだったのかどうかは、私にはわからない。
最後の盾を失ってしまった男の姿は、より一層小さく見えた。

「わ…儂を殺したところで、他の者が黙ってはいないぞ」
「そうですか。何人でもどうぞ、私は構いません」

私は男の言葉を半分で聞いて、また一歩踏み出した。男の言ったことなど、今の私にとってはどうでも良いことだったからだ。目の前で手持ちのしのびを一人殺されて、私の言葉には相当の説得力があったろう。
来れるものなら来てみろ、全部何とかしてみせる。

「――ひとつだけ、聞いてもいいですか」

尋ねたのはただの気紛れだった。これは男も想定外だったらしい。神経質そうな眉をつり上げて、言葉の先を促す。

「どうして、そんなに簡単に、他人の命を切り捨てられるんですか」
「…他人だからに決まっているだろう!」

男の声に、最早余裕などありはしなかった。

「誰だって自分の身は可愛いものだ、貴様だってそうだろう!だからこうしてここまで来たんだろう、ここに来るまで、何人も何人も何人も何人も、殺して来たのだろう!?」

私は、男の言葉を否定しなかった。全てがその通りだったからだ。

「と、取引をしないか…金もある、もし望むのなら上に口利きもして…」
「そんなの、どうだっていい!!」

袈裟懸けに派手に飛び散った血は、手際のいいしのびの技では決してなかったろう。
でも、それでもよかった。
首から先のない体は、少しの間ぐらぐらと不安定に揺れて、冷たい床の上へ倒れていった。





「…随分と派手にやったな」

背後で聞こえた声に、私は「すみません」と謝った。鳳凰さんは、謝ることではないと、そう言ってくれた。
私は改めて鳳凰さんと向き合う。盛大に返り血を浴びた姿は、きっと彼のような人に見せるべきではないだろうけれど、仕方がない。そして私は、自分より相当高いところにある鳳凰さんの目を見上げた。

「…あの、鳳凰さん」
「ん?」
「ありがとう、ございました」

色んな意味を込めての、お礼のつもりだった。
それを見た鳳凰さんは小さく息を零して、私の頭に手を伸ばし――
けれどその手が、私の頭に届くことはなかった。
空を切った金属が、鳳凰さんの手を掠っていったからだ。
私は鳳凰さんの腕を確認した。鳳凰さんは手裏剣が当たるより早くその存在を知ったらしく、その腕に傷はない。

「待て、」、そう言った鳳凰さんの声を、私は聞かないふりをした。そして私は、手裏剣の飛んできた方向へと駆け出した。





11.03.22