「起きておるか、」
戸の先で鳳凰さんの声がして、私は努めて明るく返事をした。
立て付けの悪い引き戸ががらりと開かれて、昼の光を背中に背負った鳳凰さんが、その先に立っていた。
「傷の調子はどうだ?」
「おかげさまで、今は痛くも痒くも」
昨日の無理が怪我にたたるのではないかと、朝は不安で中々起きあがることができなかったのだけれど、どうやらただの杞憂であったらしい。それどころか経過は順調そのもののようで、寧ろ昨日よりも調子がいいくらいだった。
昨日の、出来事。
それを回想するに当たって、ひとつだけ気がかりがあった。
言わずもがな、木菟さんのことである。
鳳凰さんに彼のその後の動向を尋ねようとして、私の言葉は急速にその勢いを無くしていった。それには私の中に渦巻く、色んな感情が阻害した部分もあったろう。
昨日…切羽詰まっていたとはいえ、木菟さんに酷いことを言ってしまった、それくらいの自覚は、私にもあった。
「…木菟なら、あれから一度我に会いに来たぞ」
鳳凰さんは私の目を見て、そう告げた。
「木菟さんの方から…ですか?」
「ああ。やはり思うところがあったようだな。今は任務で留守にしているが、明日には戻ろう…その際にお前を訪ねて来るかもしれん」
「任務…」
訪ねて来るかもしれない、それも意外のそれだったが、それよりも私は“任務”という単語が気になって仕方がなかった。
酷いことを言ったのはお互い様のようなところもあるけれど、昨日私にあんなことを言った彼が、彼の表情が、淡々と任務をこなす様子を、上手く想像できなかったからだ。
「案ずるな」
私の考えていることを見透かしたように、鳳凰さんは口を開いた。
「感情に左右される以前に、木菟はしのびだ」
返す言葉がなく、私は閉口した。
「…さて、」
閑話休題。ここで鳳凰さんは僅かに声の色を変えた。
「、これから何か予定はあるか?」
「私はいつだって暇ですよ」
「それはすまないことをした。予定がないのなら、付き合って欲しい所があるのだが」
え、と、思わず声が漏れた。
昨日のこともあって、鳳凰さんから私を外へ連れだそうとするのは、少し奇妙な感じがしたからだ。
答えは勿論、肯定しかないけれど。
「行きます」そう答えると、鳳凰さんは満足そうに頷いた。
「――!?」
「暴れるな、落とされたくなければな」
そうして起きた出来事に、私の頭はまるでついていかなかった。聞こえる鳳凰さんの声が近い。背中と膝の裏を支えるように添えられた両の腕に、つきすぎない筋肉の触れる感覚がした。
「あ、の!ちゃんと一人で歩けますから!」
普段より相当に高い視界から、私はじたばたと手足を動かした。こんな体勢で居続けるくらいなら、いっそ本当に落とされた方がましだ!
「怪我人は労らねばならん道理だろう」
私の抵抗などささやかにも過ぎるそれだと言わんばかりに、鳳凰さんはいとも簡単に私を支え直した。その動作がまるで子供をあやすようだったので、私は恥ずかしいやら何やらで言葉が次げなくなる。
鳳凰さんは私の言語能力が回復するのを待たなかった。飛び出た外は思いのほか明るく、私は思わず目を細める。
「しっかりつかまっていろ」、それと同時に、鳳凰さんは駆け出した。それは私の想像を遙かに超える速度で、私はたまらず鳳凰さんの首にしがみついた。
*
景色がものすごい勢いで私たちの後方へと流れていくのを、一体どのくらいの間見送ったろうか。私の足はここまで速くない。びゅんびゅんと音を鳴らして切っていく風は冷たかったけれど、そんなことはまるで気にならなかった。
というかそもそも、気にしている余裕がなかった。
私は少しだけ、鳳凰さんの首に回した腕に力を込めた。
やがて、目の前に現れた一本の大樹に、鳳凰さんは単々と駆け上っていく。
そうしてそのてっぺんまで来たとき、私は自分の目を疑わずにはいられなかった。
「――、…」
見えたのは、真庭の里の、その全容だった。
秋も終わりが近いからだろうか、紅葉は既に半ば落ちてしまっているけれど、その景観を崩すには至らない。それどころか、この葉が全て落ちきってしまっても、きっとまた違う味わいがあるのだろうとさえ思わせる。
「我はここから見える景色が好きでな」
私と同じようにその里を見下ろしながら、鳳凰さんはそう言った。わかる気がした。
美しいだなんて、言葉で肯定してしまうにはどこか勿体なく感じて、私はただこくりと頷いて同意を示す。
この人は、私にこの景色を見せたかったのだろうか。ふとその景色から視線を外して鳳凰さんを見れば、ばっちりと目が合った。けれどその目に映っているのは既にこの景色ではなく、私の目だけだったので、私は思わず口をつぐんだ。
鳳凰さんの唇が、らしくもなく少しだけためらうように開かれた。
「幕府が、いくら捜しても見つからないお前に、業を煮やしておる。いよいよ以て、時間がない」
心臓がどきりと跳ねた。
時間がないというのは、つまり、今は隠蔽のために身内で済んでいる私の捜索が…大々的なものに変わるというのに、そう遠い話ではないということだろうか。
鳳凰さんの目を見た。その目は、まるでそれを肯定しているかのようだった。
「お前はどうしたい?」
そう問いかけられて、私は一瞬言葉を失った。
――私がどうしたいのか、聞いてくれるのか。
それを聞いて、少しだけ安心に似たような感情を抱いた。
「どうしたいも、何も…」
そこで私は一度言葉を切った。どのように繋げばいいのか、迷ったのだ。
頭の中で答えはもう出ていた。けれど、それを表現できる上手い言葉が見つからない。
「私は…鳳凰さんと、一緒にいたいです」
そしてようやく私が言えたのは、そのひとことだった。
それは、いつの日からか言いたかった言葉にとてもよく似ていた。
鳳凰さんは何も言わなかった。ただ、私の身体を支える腕の力が、少しだけ強くなった。
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11.03.08