「…やはり来たか」
がようやくその身を休めた小屋の、すぐ近く――けれどこうして話す声は彼女の耳には届かないであろう、丁度その位置で、鳳凰は己の背後を見遣った。
そこに佇むように立っていたのは、真庭木菟である。
「なら戻ったぞ。おぬしの方は大事はないか?」
「…これくらい、任務には何の支障もない」
そうは言いつつも、彼の頬に入った切り傷は、何の手当もされないまま夜風に吹きさらされていた。乾いた血液が、彼の頬から剥がれ落ちていく。
――支障がないのは、どういった意味の話なのか、鳳凰は考えないでもなかった。
「些か手荒かったとはいえ、の脱走止めたことには礼を言おう。我が気付いた時点では、恐らく間に合いはしなかっただろうからな」
鳳凰の言葉裏にあった意味を、木菟はすぐさま理解した。
今、こういう局面に置いて、真庭鳳凰の対応が遅れるなどという事の理由はひとつしか考えられない。
「…周囲の状況は、矢張りあまり良くないのか?」
「端的に言えば、悪いな。どうにも勘付いて来た輩がおるようだ」
あの晩の二人組のことだ。その片割れから僅かに聞くことができた話では、彼らを遣わせた幕府の者…この場合はの元来の雇い主でもある男もまた、逃走したが見つからないことに関していい加減辟易しているらしい。
今は彼の身内で済んでいる問題だが、この調子では大々的に公表されるのもそう遠い未来ではなさそうだった。
『お尋ね者』として街中に立て札が置かれてしまえば、にとっては生きづらいことこの上はない。
「なら、そろそろ本格的に動くんだな」
木菟の言葉に、やれやれと言った風に、鳳凰は溜息を零した。全く持って彼の言う通りである。早ければ明日にでも、行動を起こしたい。
木菟にとってはこの話はここで打ち切りであるらしかった。
この話題にあまり重要性を感じていなかったわけではない。しかし、木菟の頭はただずっと、とある違うことを懸想していた。
夜は深いが、あと二刻すれば日も昇るだろう。翌日になる。そうなれば、鳳凰はすぐにでも動き出してしまうかもしれない。
その前に、木菟にはどうしても確認しておきたいことがあった。
「あんたは…あいつをどうしたいんだ?」
呟くように問いかけられた木菟の単刀直入な声に、鳳凰は返事をしなかった。
元来、真庭木菟は回りくどいことが嫌いな質の男である。その点は鳳凰も重々知っていたので、特に何という風でもなく肩を竦めただけだった。
「あんたは、随分あいつに甘い」
「否定はせん」
鳳凰は誤魔化しもせずにはっきりと言い切った。その様子は木菟にも予想外だったらしく、一度、言葉を失う。
けれどそんな自分を振り切るかのように、木菟は無理に言葉を紡いだ。
「――しのびには、向いていないだろう」
そういう木菟の目が、既にしのびらしい色を宿していないことに、鳳凰は気付いていた。
「人を殺すのが嫌で、それでも他人に迷惑を掛けることも嫌だという…それなのに、あんたは真庭忍軍に入れようとしているんだろ。あいつがしのびに向いていないことなんて…あんたなら、とっくに気付いているはずだ」
「だとすればどうする?に、今日を以て堅気に戻れとでも言うつもりか?」
「…それは」
「できぬであろう。それこそ、酷というものだ」
木菟は、迷ったように一度口を開きかけて…やがて閉じた。
今日の木菟の言葉は、随分と歯切れが悪い。
そこでふと、鳳凰は思い出した。
幼少時代の木菟の姿を、である。
思い出したことに明確な動機があったわけではないが、今の木菟とかつての木菟の明確な差異による違和感がそうさせたのかもしれなかった。
その思考を遮るように、木菟はようやく、どこか未練がましく口を開いた。
「だから…だから、あんたは、どのをこちら側へ引っ張ってこようとしているのか?」
「否定はできんな」
「そんなの――」
「我の身勝手、か?」
今の木菟の考えを先読みすることなど、容易かった。その上で、その言葉も鳳凰は否定しない。
「あんたは、のことを、」
けれどその先は続かなかった。声は急速にその勢いをなくして、残ったのは沈黙だけだ。
鳳凰は、その木菟の様子を、ただじっと見据えていた。
「いくらそれらしい論を並べてみたところで、そこに我個人の感情がないかと言えば、嘘になる」
「………」
「先程、をどうしたいのかと訊いたな」
鳳凰の鋭い目は、今度こそ木菟の大きな目を見据えていた。
今では、まるで女ひとり殺せないような目をしている。
「おぬしこそ、どうだ?」
「…、……」
「おぬしはを…どう思っておる」
答えようとして――答えが、出なかった。
「つまりは、そういうことだ。木菟」
そう言って、鳳凰は夜の影に身を眩ませた。
残された木菟は、ただその場に立ちすくむのみだった。
夜が明けるまでは後二刻ほどあったが、木菟はその間、一歩として歩み出せないでいた。
俺は一体どうしたいのだ。
先程投げかけられた問いが腹の内で反芻されて、消えた。
木菟はぼつりと何かを呟いて、夜空を見上げた。その口元に湛えていたのは、どこか自嘲的な笑みだった。
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11.03.03