私は、昼間の男のひとがくれた替えの着物の帯をぎゅうと締めた。

着物は無理を言って持ってきて貰ったものだった。今のうちから鍛練しておきたいのだと建前を並べて、ようやく用意してもらったものだ。その理由で押し通せたことは、幕府が何らかの形でこの事態絡んでいるという私の直感を裏付けるには充分だった。
外は既に暗い。が、やはり私が望んでいたような曇天ではないようで、小屋の格子窓からは僅かばかりの月明かりが漏れていた。

私は、今日の夜でこの小屋を出ることにした。

部屋の中をぐるりと見回して、何か持って行けそうなものはないかと探ってみた。暗器になれば何でも良かったが、当然、今の今まで私が寝ていた部屋にそんなものは置いているはずもない。ただ小屋の奥の棚に、気付け薬をひとつ見つけただけだった。暗器の類は途中で調達するしかないか、と少しだけがっかりする。初めから期待はしていなかったけれど。
脇差しは恐らく、鳳凰さんか木菟さんが預かっているのだろうし――それを取りに行くわけにもいかないから、結局は着の身着のままの状態だ。

そして私は、小屋の外へ出た。
昼間には一度外に出たはずなのに、冷たい外気が何故かすごく久しぶりのものに思えて、私の右胸は思い出したようにぎゅうと痛くなる。
さて、差し当たりの行き先はどうしようか。私をこんな目に遭わせた雇い主様に一矢報いてやるのも悪くない。
とりあえず、ここを早く離れてしまおう。
地面を均すのと同様に身体を慣らすように、私はその場でとんとんと足踏みした。…動きは鈍くなっているけれど、少し走れば勘を取り戻せそうだ。

「………」

思うところがあって、私は背にした小屋を、一度だけ振り向く。

「長らく、ご迷惑をお掛けしました」

誰もいない空気に向かって…最後に私は、そう告げた。
頭に浮かんだのは鳳凰さんの顔だった。

――ひとつだけ、伝え損ねたことがある。
私は、真庭忍軍に来ないかと誘ってくれたときの、その返事をしていなかった。

まぁ、今更そんなことを思ったところで、後の祭りなのだろうけれど。
そして、私は今度こそ意を決して、私は地面を蹴った。


「どこへ行くつもりだ、どの」


丁度その機を窺っていたかのように、声は掛けられる。

「…夜の散歩ですよ」

見張りが立てられているであろうことは予想の範疇だったけれど。
声のした方向を見上げてみれば、そこには黒い影が浮かんでいた。その影の持つ両の目も暗いけれど、大きなその目はどこか威圧的だった。

「それにしても随分と遅い散歩だな」
「ええ…私はお尋ね者ですから。それより、あなたこそこんなところで何をしているんですか…木菟さん」

小高い木の上にいたのは、木菟さんだった。
木菟さんはまるで知らぬというように、おどけるように肩を竦めてみせたけれど…その目だけは、私の考えることなど全て見通しているとでも言いたげに、私を見下ろしていた。

「いや、このところ幕府の犬が近場を嗅ぎ回っているらしくてな…鳳凰どのが直々に動いているんだが、」

すっと、
そこで、木菟さんの大きな目は細められる。

「あんたも、こんな時間に出歩くのはやめた方がいい。脱走した若しくは内通したと、思われたくないんならな」

木菟さんが言い終えるのを待たずして、私は既に駆け出していた。

その際に、背中の傷が引きつる感覚があった。やっぱりまだ傷は完治していない、それはわかったけれど、今更この足を止めるわけにもいかない。
木菟さんが立っていた木の、そのすぐ下を抜けて、私は草木の茂る獣道へと出る。
そしてそのまま、獣道の続いているままに従って走った。地の利は間違いなく向こうにあるから、下手に攪乱しようとしても、上手く回り込まれてしまうのが落ちだろうと考えてのことである。
案の定、気配は後方から迫ってきた。
このままでは、あと数瞬もしない内に捕まる。そこまで引きつけたところで、私はくるりと踵を返した。

――忍法・円転流!

久しぶりに使った忍法は、全身の筋肉に多大な負担を強いた。

「!」

事の異常さに勘付いた木菟さんは一歩身を引いた。が、その視線の向いている先に、既に私の姿はない。
木菟さんはくっと呻いて辺りを見回すが、その視線のどこにも、私の姿を捉えることはなかった。
その際、どんなに練達した者でも見せる、一瞬の隙がある。
その隙を狙って、丁度木菟さんの死角になるあたり――そこから首もとに、刀に見立てた平手を打ち込んだ。

いや、正確には未遂だった。その風を切る音に気付いた木菟さんが、身体を無理に反らして、ごろりと地面に一度転がったからだ。
その後を追おうとしたところで、背中の傷口が酷く引きつった。
痛みに私が一瞬怯んだのを、木菟さんは見逃さない。

気付けば肩に人の手のひらの触れる感覚があって、けれどその手は私を突き放すでもなく、そのまま地面へと強く押し倒した。
木菟さんは男性としては決して体格が良い方じゃない。その痩せた身体を押しのけようとして、けれどそれも叶うことはなかった。
私の喉もとにあったのは、鉄の冷たさだったからだ。
そこでようやく私は一度動きを止める。
仰向けのまま正面を見る他がない。見れば、木菟さんの頬には赤い筋が通っていた。さっき転がった際に切ったのだろう――そして私は、木菟さんと、目が合った。


「――あんたは、むざむざ死にに行こうってのか!?」


思わぬ激昂に、私は思わずたじろいだ。

「折角拾った命だろうが…何で死にに行くような真似をする!何のつもりだ、幕府の連中におとなしく首でも差し出すつもりか!?」
「そんなつもりは、」
「そんなつもりだから抜け出そうとしたんだろうがっ!」

木菟さんの感情は、まるでむき出しだった。
こうして捕まっていることよりも、そちらの方が、私を当惑させる要因であったことは間違いがない。私の唇は、自分の思うように動いてくれなかった。

――これは、木菟さんじゃない。

そんな言葉だけが、私の頭にはたりと浮かんでは消えた。

「あんたは――」

木菟さんの唇が…暗闇の中かすかに、けれど確かに、震えていたからだ。
そこに、私がしのびらしいと思った木菟さんの姿はない。

「あんたは、鳳凰どのに惹かれていると、言っていたじゃないか…!」

その声は、まるで…絞り出すような、声で。
はたりと、温かい液体が私の頬に落ちた。それが血だったのか、はたまた別の何かだったのかは、くらすぎてよくわからなかった。

そこで一旦彼の言葉が途切れたのを受けて、私はよく見えない木菟さんの目を、ぎっと睨んだ。

「だからじゃ、ないですか!一緒に来ないかって言って貰って…命を助けてもらって、今まで匿ってもらって、私がこれ以上我が儘言うことなんてないですよ!」

喉もとの鉄…小刀の峰は、夜の外気に当てられて急激に冷え込んでいくようだった。

――私なんかのために、幕府を敵に回すなどあってはいけないことだ。
幕府内でも確固たる地位を確立している真庭忍軍がこうして事を起こせば…これを口実に、真庭忍軍を排撃しようとする者もいるだろう。
私は、もう充分に嬉しかったから。

「個人より集団を活かすべきでしょう!私はこれから自分の責任をどうにかしに行きますけど、それが失敗したら自害しますから、安心でしょう!?」

そして、これが最後だと言わんばかりに、私は木菟さんに言葉を叩きつける。
それは私が言うにはあまりにも上っ面だけで、とても狡い、そんな言葉だった。


「私一人にこんなにかかずらって、本当にしのびらしくないのは、どっちですか!」


木菟さんの大きな目は、より一層、大きく見開かれた。
また怒鳴られるかと思った。けれど、返ってきたのは沈黙だった。
今までの張り上げた声が嘘のように、まるで言葉を失ってしまったかのように、木菟さんは何も言わない。

「!…ぐ、う…!」

その代わり、首に掛かる負荷が、急激に大きくなった。
息ができなかった。首に突きつけられた刀の峰が、空気の道を塞いでしまっているらしい。
木菟さんは、自分が今いったいどのくらいの力で刀を押しつけているのか、わかっていないようだった。私の呻く声すら、その耳には届いている様子がない。

「何も…何も、わかっちゃいない…!あんたは…」
「そこまでにしろ、木菟」

突然、木菟さんのいる奥から声がした。

を放してやれ」

その言葉で、木菟さんはようやく我に返ったようだった。ひゅっと息が喉を通る音がして、私は少しばかり咳き込んだ。
刀はすでに、私の首もとにない。同時にまた、私の上に乗っていた木菟さんの細い体もなかった。
――立っていたのは、鳳凰さんだった。

「…くそっ」、視界の端で、小さく悪態を吐く声が聞こえた。鳳凰さんからその声の方へ視線を合わせてみたけれど、そのときにはもう、その視界のどこにも人の影を捉えることはできなかった。




そして、残ったのは気不味い沈黙だった。しんと冷え切った夜の空気の中にはもう、私と鳳凰さんしかいない。鳳凰さんの目を直視するだけの勇気はなかったので、木菟さんの姿を見失った視線はそのまま地面へと降ろされた。
鳳凰さんはその場から動こうとしなかった。後ろめたい事情があるのは私の方だから、案外気不味さを感じているのは私だけかもしれない。

「戻るか」

どうして、
どうして鳳凰さんは、言及しないのだろう。
ふと目が合った鳳凰さんは意味有り気に、小さく笑った。

「尋ねたところで、お前は答えようとはしないのだろう?」
「それは…」
「ならば、お前から話すときを待つまでだ」

ぽんぽんと子供をあやすように頭を撫でられて、私はどうしようもなくなってしまった。

「……木菟さんは…どこに?」

その思いを振り切るように、私は彼の名前を口にした。

「頭でも冷やしに行ったのだろう」と鳳凰さんは言ったが、詳しいことは何も教えてくれる様子がなかった。
私は、ぼうっとした意識の中に、鳳凰さんの顔を見た後煙のようにあっという間にいなくなってしまった木菟さんの、あの表情を思い出した。

「…木菟は変わったな」

そう口火を切った鳳凰さんに、私は降ろしていた視線を向けた。

「少なくとも我は、あれほどまでに激昂する木菟を初めて見た。あれが心乱されているのは間違いなくお前の影響であろうな」
「…私なんて、何もしてないですよ」

私は、木菟さんに何もしていない。
寧ろその立場は逆ではないか、そうとさえ思う。

「酷いことは…言いましたけど」

その点については、私にも少なからず省みる点があった。
一体鳳凰さんは、木菟さんとの会話をどのくらい聞いていたのだろうか。それはわからないけれど、話の流れは大方掴んでいるようだった。

「まあ、本人にその自覚があるのかどうかは、また別の話だ。これ以上は憶測に過ぎん、我の口からは何とも言えんがな」

そう言われてしまえば、私はそれ以上追求する術を持たない。
鳳凰さんは、獣道を真庭の里のある方向へ歩き出した。
…はあ、
その背中を見ながら私の口から漏れたのは、至極わざとらしい溜息。
こうなってしまった以上は、もうどうしようもないと言って良かった。この鳳凰さんの隙をついて逃げおおせられるわけもなし。ここはとりあえず、鳳凰さんの言うとおり帰る他なさそうだ。
(そう言って、本当はそれを望んでいたのかもしれないけれど)
一歩踏み出したところで、背中に刺すような痛みが奔った。言わずもがな、大きな傷口のあった場所だ。
声は殺したけれど、鳳凰さんの耳は誤魔化せなかったらしい。数歩先を歩いていた鳳凰さんは振り向いた。

「傷口は開いていないようだな…だが、激しい運動は避けた方がよかろう。歩けるか、

私がこくんと頷くと、鳳凰さんは私の身体を支えるようにして、再び歩き出した。
鳳凰さんの顔を真っ直ぐに見ることができなかったので、私は俯いたまま少しだけ泣いた。





11.01.18