ばさばさと、大きな羽音を立てて鳥が飛び去っていくのが、窓格子越しにわかった。
私は上体を起こして、その格子の奥にある青い空を見上げる。
――昨日の夜は、随分と騒がしかったな。
その騒がしさは即物的なものではないけれど…
あれはきっと、風の音だけの騒がしさだけではない。
頼れるところはつまり己の勘なのだけれど。
私は腕を伸ばして、傷口が開かないかどうか試してみた。引きつるような感覚はあったけれど、こうして腕を動かしたりする分に問題はなさそうだ。
けれど、事態は楽観視できない。深刻だったのは、腕がまるで鉛が入っているように重たかったことだ。
布団から出ようにも、腕も足も身体も同様に、思うように動かせない。身体の筋を動かそうとするだけでも、まるでそれが自分の身体ではないような錯覚に陥った。ここでの何度目かの朝を迎えた今でも、その事実だけは変わる様子を見せない。
――参ったな。
私はひとり小さくため息をついて、小屋の外に思いを馳せることにした。
もう日が昇ってそれなりの時間が経つというのに、誰かがやってくる気配は未だない。
ここ最近、鳳凰さんを見掛ける機会が少なくなった。
まあ私にいつまでもかかずらっているわけにはいかないだろう、そのことはわかっているけれど――
せめてこの身体がちゃんと動けば、この暇を潰すことくらいはできるのに。
そろそろ――忍法の訓練もしないと、腕は鈍っていくばかりだ。
私が唯一持ち得る忍法らしい忍法…名前を、『忍法・円転流』という。
どういう由来の名前だったのかは覚えていない。気付けば私はその忍法を、そう呼んでいた。
噛み砕いて言ってしまえば、気配を消すことにのみ特化した忍法である。
光の入り加減、風の流れ――それらを総合して、丁度相手の死角になり得るところ。私の忍法はそこを突くことができる。
まあ…それもまた、普段からの鍛練あっての代物なのだ。だから、こうにも身体を動かせない日が続くと、どうにも参ってしまう。
それでもやっぱり思うように動かない身体を恨めしく思いながら、私は外の鳥の声に耳を傾けることにした。
そのとき、小屋の引き戸ががらりと立て付けの悪い音を立てて開かれた。
鳳凰さんだろうか、そう思って顔を向けたけれど、そこにあったのは、連日同様、鳳凰さんの姿ではなかった。
黒の髪はさほど長くなく、中背程度の男。どことなく冷静そうな雰囲気の漂うひとだ。鳳凰さんがいないこのところ、朝晩の膳を持ってきてくれている。
男の手には、やはり私へのものと思われる朝餉の膳があった。
「遅くなってすまなかったな」
どことなく淡々とした喋りで、そしてそのまま小屋の中へ、膳を手に持ち入ってくる。
名前はまだ聞いていなかった。相手方は私の名前を知っているようだけれど、一向に名乗ってくれる気配はない。まあ、何か用事があるときはあの、とかその、とかで済むから、何ら問題はないのだけれど。
ふと、鳳凰さんはどこへ行ったのだろうか、この人に聞いてみようか、そう思った。が、その考えはすぐに打ち消す。
私が軽々しく踏み入って良い領分の話ではない。
「…昨晩は大事なかったか?」
その言葉に、私ははっと我に返った。
私の手の届くところに膳を置いたところで、男は私にそう尋ねたのだ。いつもはこうやって話かけてくれることはないから、気を抜いていた。
唐突な話題振りに多少怯んだものの、私は割と平静に答えを返す。
「特に何もありませんでしたけど…」
「ならば良いのだが」
彼のその口ぶりが、少し引っかかった。
昨晩は――私が騒がしいと感じた、あの夜である。
男のひとに嘘を吐いているという様子はない。けれどまるで、真意を告げる気はないという意図が見て取れた。
――ああ、もしかして幕府が、
そう思ったのは――ほとんど直感と言ってよかった。
私は自分の唇を、少しだけ噛んだ。
そのとき、ちょうど格子窓の外で鳥が鳴いた。
「あの、お願いがあるんですけど」
朝餉を置いた男のひとは、私の声に一瞬怪訝そうな表情を見せたが、無言でその先を促した。
「食べ終わったら、外に出てみてもいいですか?」
小さい変化ではあるが、男のひとの表情は確かに曇った。
けれど、僅かに寄った眉根はすぐに元に戻り、少し迷った素振りを見せた。泊めてもらっている身だからどうこう言えないけれど、この小屋での生活は少々息苦しい。それを察したのだろう、彼は長めの間を取って、「出るくらいなら問題ないだろう」と言った。
*
一歩踏み出した瞬間、冷たい風が私の身体を吹き抜けた。
鳳凰さんや木菟さんだったら、外に出してはくれなかったかもしれないな――と、そんなことを考えながら、純粋な気持ちだけで外に出たわけではないことを、この男のひとに少し申し訳なく思った。
空は淡い蒼色に晴れ上がっていて、雲一つない。この調子だと、夜まで曇るのは望めなさそうだ。
そこでもうひとつ、凍てるような風が吹いて、あまりの寒さに私は身震いした。
後ろにいた男のひとの「寒くはないか」の一言に、「大丈夫です」と答えて、私の目はふと、振り返った小屋の隅のところに向いた。
小屋のすぐ外で、猫が死んでいた。
白い毛に茶と黒の斑の入った、老猫である。少し離れて見て、老衰だと思った。最初、蹲っているだけのようにも見えたが、その筋は遠くから見てもわかるくらい固まっていて、肩は明らかに息をしていなかった。
「…猫か」、男のひとも私の視線を追ってその存在に気付いたらしく、「気を悪くしたならすまない、後で片付けておこう」と言った。
「…生きて死ぬのなんて、あっという間ですよね」
ぼつりと呟いた私の言葉に、男のひとは返事をしなかった。
←■→
11.01.15