深く木々が茂る場所。そこは真庭の里から程なく離れたところにあった。
人の影までも隠されてしまいそうなほど数多くある木の中、いっそう高くそびえる木の上に、真庭鳳凰の姿はあった。
風が強い。彼の持つ長く黒い髪は、夜の黒さに溶け込みながら、その吹きつける風に靡いていた。
「――何の用だ?」
不意に、彼はそう口を開いた。
周囲に人影はなく、声は風に呑まれて消えたけれど――鳳凰のいる木から数本ほど離れた木の幹の元、そこに二人の人影が現れる。突然と表現しても差し支えはなかった。
「真庭鳳凰だな」
既に知り得ている事実を反芻しただけ…その声は疑問系ですらない。
「だとすればどうした」と返す鳳凰は、あくまで些事であると言わんばかりに、二人の人影を振り向こうとはしない。
「幕命が下っている。これから問うこと全て、偽りなく話せ」
鳳凰は答えない。それを肯定と受け取ったのか、二人の男の内の一人が言葉を続ける。
「先日、幕命に背いた女が逃げ出した話は知っているか」
「それは大層な話だな。初耳だ」
「幕府の機密を持ち出したまま逃げ出した…とんだ売女だ」
「随分と酷い言い様だ。我の知り合いにはそのような女はいない…他を当たってくれ」
飄々として、鳳凰は男の問いをいなす。その鳳凰の様子に、問いを投げかけた方の男はやや目を細めた。
「…知っていることがあるなら話せ」
「…我が何か隠しているとでも言いた気だな」
「しのびの言うことほど信用のならんものはないからな」
「先程は偽るなと言いながら、随分と矛盾した話だ」
確かに、風に逆らって鳳凰の背中に伝わるものは、明らかな敵意だった。
――機密がどうの、此処まで来れば嘘も方便だな。
背後を取られたところでわけもないが、随分と件の女を悪く言う――と、鳳凰はそこでようやく身体を反転させて、二人の男を向いた。
それを受けてか受けずしてか、先程まで話していた男とは別の男が口を開く。
「その件について、真庭忍軍に協力の要請が出ている」
木々の暗がりに隠されてはいるものの、二人の人影はいずれも、あの晩と共に屋敷に侵入したのと同じ男だった。
本来、鳳凰が知る由もないことであるが、それもこの真庭鳳凰は、薄々感じ取っていたのかもしれない。
「幕府の内情に我々が関与する道理などどこにもなかろうよ」
内部の忍者を使わないのは、それが幕府の権力争いに関わるからか――と、鳳凰はそんなことを考えながら、言葉を返す。
今ひとつ要領を得ないばかりの鳳凰の返答に、男が苛立ったのは事実だった。その浮かんだ苛立ちを隠せないほど、男は愚かではなかったが…男はその鳳凰の答えを受けて、こう言葉を紡いだ。
つまり、その切り札が丁と出るか半と出るか、この男はまだ知らないでいたのだ。
「真庭忍軍に、件の女を匿っているとの疑いが掛かっている」
「………」
真庭鳳凰はあくまで冷静だった。
けれど、その鋭い目が更に怜悧な色を宿したことに、二人の男は月明かりの逆光のせいで気づくことができない。
「意味がわかるか――今の内に女を差し出せということだ。現状でその事実を知っているのが我々だけの内にな」
「その我々というのは、つまり、おぬし等のみと受け取って良いのだな」
釣れた、とでも思ったのだろう。少なくとも、それが男に安易な安堵を抱かせたことは確かだった。
肯定を示した男に、鳳凰が返した言葉は次の一言のみである。
「そうか…そこまで知っているのなら致し方ないな」
男にとっては、切り札のつもりだった。そのつもりで交渉に出した話だ。
けれど、内容が内容だけに、斬りかかられるやもしれぬということはある程度予想していた。油断していたつもりも、それが不遜だったつもりもなかった。
ただそのいずれも――大きな誤算であったとしか、言いようがなかっただけで。
真庭鳳凰の、姿が消えた。
男の内ひとりが、咄嗟に隠し持っていた暗器を放つ。が、その軌道が描いた先には何の人影もない。
気づけば真庭鳳凰は眼前にいた。
再び打とうとした棒手裏剣、それすらも腕を奪われることで封じられ、男はどうにも立ち行かなくなる。
「ぐ、」呻いた言葉は、夜の風に掻き消されて消えた。
「さて…他に何か知っていることがあるなら、話して貰うが」
両腕をがちりと背中で固定され、男は身動きを取ることができない。
その声は…まるでぞっとしないほど、ぞっとさせる色を含んでいた。
――殺される、
認識が甘かった、男はこの状況でありながら素直にそう思う。
だが――ひとり、逃げおおせた。
横にいた人影は、既になかった。真庭鳳凰の姿が消えた瞬間には、もう逃げ出していたというのが正しい。辺りに血痕があるわけでもない。
一人逃げ帰ることが出来れば万々歳だと…男は、潔くそう考えた、のだが。
「一人逃げたか…まあ、追って殺せばよかろう」
「…!」
的確に、考えを読まれたかのような発言に、男は動揺を隠せはしなかった。
通例ならば先に逃げ出した方に、此処まで時間を置いた上で追った側が追いつくはずもない。且つ、相手がどの道を通っているかわからないのなら尚更だ。その程度には、二人は優秀なしのびだった。ただ、真庭鳳凰がその遙か上を行くというだけの話で。
「あの女に、絆されたか…!」
苦し紛れの中、男は掠れた声で叫んだ。
そこに時間稼ぎの意図があったことは明らかだけれど――それは結果として、より自分の命を縮めただけの結果しか、もたらさない。
本来、この問いとも成立しない問いに、鳳凰が返答する義理も何ものないのだけれど――
「…絆されるも何も、我は最初からあれには甘い」
呟かれた声は――その怜悧な目からは想像も出来ないくらい、静かなものだった。
思い出すのは、いつぞやの遠いあの日。
脱兎の如く逃げ去って行った頼りない後ろ姿を見送った、あの日の出来事だった。
しかしそのようなことを、この男が知る由もない。
「…ん?そう言えば、おぬしは…木菟からの報告にあった男と合致するな」
「…!」
「木菟がひとり殺したと言っていたから、丁度数も合う――なるほど、おぬし等が、を斬ったか」
真庭鳳凰の声が帯びた変化には気付いたが――それまでだった。
最後に、自分の胸に風穴があいたことくらいは、わかったけれど。
「…思っていたより早かったな」
足下に転がった死体を見ながら、真庭鳳凰はそんなことを呟いた。
幕府の連中が勘付くのが、という話である。
こうして一人、うっかり殺してしまったが、まあ話を聞く分にはもう一人の方で事足りるだろうと、鳳凰は冷たいままの目で足下の遺骸を見下ろした。
――こちらも、予定より早急に対処せねばなるまい、か。
そんなことを考えながら、鳳凰は暗がりに姿をくらました。言うまでもなく、先程逃げた男の口封じのためであった。
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10.12.16