「…正直、あんたの顔は見たくなかった」

小さく、けれどどすの利いた声で、木菟さんは開口一番そう言い放った。
私はその言葉に小さく唾を呑んだ。
そこに変わらず抑揚はないけれど、それが尚更、この場の空気を重くしているのかもしれない。
木菟さんは小屋の引き戸を開け放ったまま、その入り口の縁のところに身を預けている。外は相当冷え込んでいるらしく、その冷たさは布団の中で上体を起こした私の半身に構わず吹き付けた。寒くないと言えば嘘になるが、多分、彼にとってはそれが狙いなのだろう。

「…すみません、わざわざ」
「鳳凰どのに声を掛けられたからな。それがなけりゃ、今すぐにでも帰りたい気分だ」

声は不機嫌そのものだった。
此処で私が、彼に対して不快に思うことをしなかったのは――まるでその声が、無理に何かを突っぱねるようだったからだろうか。
ひしひしと、木菟さんの視線は、用があるなら早くしろ、暗にそれを伝えていた。
どう言葉を繋ぐべきか迷った挙げ句、私は木菟さんから視線を外して、ようやく口火を切った。

「助けて頂いたそうですね」
「…聞いたのか、鳳凰どのに」
「はい。…えぇと、そのお礼が、言いたくて」
「…………」

返事はなかった。
私は木菟さんを振り向いた。互いに合った目は、ともすれば私を睨め付けているようにも取れた。
やがて、彼はその沈黙を破って口を開く。

「…あんたは…助からなければ良かったのに」
「え…」

思わず、私の声は続かずして空気の中に掻き消えた。
木菟さんは、そんな私を色の無い目で見下げていた。

「いっそ助からなければ、これから先何も悩まず、ただ一人のしのびとして死ねたのにな」
「でも、」

私を助けてくれたのは、木菟さんじゃ――

「俺には礼を言われる資格はないよ」

木菟さんは私の言葉を遮って、そう告げた。
その言葉の裏にあるはずの意図すら、私には読み取れない。

「私が言いたかっただけですから、資格も何もないです」
「資格も義理も道理も、ない」

ひどく、断定的だった。
この先私が何を言ったところで、後に待っているのは肯定と否定の鼬ごっこなのだろう。それを感じさせるほどに、とても決定的に否定的な言葉だった。

「そしてあんたにも、礼を言う資格も義理も道理もない」
「!」
「だって忍者は卑怯卑劣が売りなんだろうが…そこに堅気らしい侠気を持ち込んだところで、どうしようもないだろうがよ」

そのとき木菟さんが浮かべていた表情は、私にはよくわからないとしか言い表せなかった。
無表情であることに変わりはない。
ただ、いつも木菟さんが湛えているような無表情では、この場合、ない気がした。

「あんた、真庭忍軍に勧誘されたらしいな」
「…知ってるんですか?」
「鳳凰どのに聞いたよ。
 …俺みたいなのに言わせるとな、あんたみたいな奴に入ってこられるのが、一番迷惑なんだ」

木菟さんは、続ける。

「殺しの腕は中途半端。その癖いらねぇ義理ばかり通したがる――野武士でもやってろってんだ。そんな人間らしい侠気は、しのびの世界には必要がない。だからあんたは、しのびらしくないって言うんだよ」

それでも、どうしてだろうか。
これだけ酷いことを言われたのに、私は怒る気にはなれなかった。
言い返す言葉もない、そう思ったことも、あるけれど。
木菟さんがそんな私の様子を見て何を思ったのかは知らない。ただひとつ、彼は溜息を零した。

「…そんなあんたに朗報だ」
「朗報…?」

突然の話の振り方に、私は思わず訝った目で木菟さんを見た。
木菟さんは、まるでそんな私には取り合わないというように、勝手に話を進めていく。

「あんたは、自分が幕府から怪しまれてたってこと、気づいてたのか?」
「それは…私が殺さなかった女の人が、城下で諍いを…」
「そうだ、あんたがあの晩、殺し損ねた女だ」

木菟さんと共に任務をこなしたあの晩の話だった。
あの日の晩に…私が、逃がした女のことだ。

「最初、幕府は別に、よくあることだと問題視してなかったみたいだが…」
「………」
「俺は、それを今後の幕府との交渉なんかに利用できないものかと、ずっとそんなことを考えていた」

里のために。自分のために。利益のために。
淡々と、木菟さんは続ける。
淡々と、訥々と。
事も無げに話すには、到底そぐわない話ではあるけれども。

「それで、幕府城下で未亡の女が諍いを起こしたとき――そのまま牢に繋がれるはずだった女の身元を調べろと…
 …奴らに声を掛けたのは、他でもない俺だ」

木菟さんは、私の様子を伺うように一旦声を切ったけれど…言葉をなくしてしまった私には、答えることができなかった。
けれど、木菟さんにとってはそれが返答として充分なものであったらしい。


「わかるか。そもそもあんたを殺そうとしたのは、俺だったんだよ」


木菟さんの表情は…もう、私には、わけがわからない。

「それで上手く事が運ぶかと、あの夜俺はずっと見てたんだ。それで、いざあんたが殺されるとなったとき…もっとこの状況を活かせるんじゃないかと、そう思った」

だから、あんたを助けたんだ。

「顔を見られないように気をつけながら、代わりにひとり、相手方を殺してね。その死体を、存外相手方もあんたの身代わりに仕立て上げたのかもしれないけどな…――
――あんたをこうして匿っているのも、単純な動機だよ。逃げ出したあんたを幕府に差し出せば、真庭忍軍の株もまた上がるだろう?」

そのときの声には、恐ろしいほどに抑揚がなかった。あるいは、以前木菟さんと話したときよりも、ずっとそれを感じさせるほどに。
そこで、木菟さんは私の目と自分の目を合わせた。ぐるぐると渦巻くそれは、気持ちが悪いくらいに、色がない。

「俺はこんな奴だよ。…人間らしいあんたは、知らなかったかもしれないけどな」

そこで初めて、木菟さんは笑った。
この人の笑顔は、多分初めて見た形となる。無知な私を嘲るように、木菟さんは口元を歪ませて、嗤った。





10.12.15