びゅう、と風が強く唸った。
その身を切るような冷たさに思わず身を縮めた。今日はいつになく、冷える。そんな風に寒空を見上げながら、私は昨日の出来事を懸想していた。
私の今までの思考はほぼ全て昨日の出来事にかかずらっていると言ってよかった。

――真庭忍軍に来ないかと、言われた。
考えれば考えるほど、現実的な自覚がなかった。
この任務が終わった後、自分がどうするのかすらも、不透明だ。
そして、私は一体どうしたいのか。

「………」

あるいは答えなど、当に出ているのかもしれなかった。
少しだけ、わかる気がした。多分、私は――

そのとき、私の背後に気配が現れたのを知った。私の身に纏ったしのび装束が揺れたので。
振り返って見れば案の定、そこには三人の男の姿がある。どの男も、私と同じような色の装束に身を包んでいた。冷たい目が私の姿を認めたのとほぼ同時、それもまた温度のない声が、私の耳に届く。

「――行くぞ」その声に、脳髄がひどく冷え込んでいくのを感じた。
まずはこの任務を片付けなくてはなるまい――懊悩とするのは、それからだ。
それはやはり、言い訳だったけれど。
色々な感情が綯い交ぜになりながら、それでも私はそれらを全て振り切って、地面を蹴った。





「情報に誤りはないな」大屋敷が見えた。言わずもがな、私にとっては見慣れた景観だ。
そのそびえ立つ木々の草葉の中で、男の一人が口を開いた。間違いはない、家主様はこの時間、書斎のある離れで文をしたためているはずだ。私がうなずくことで肯定すると、三人いた男の内二人がたんと幹を蹴って闇夜にその身を躍らせた。

「もう殺しに行ったんですか?」
「…いや、」一人残った男は、端から私のことなど文字通り眼中にないようで、こちらを見向きもせず、しようともせずに答える。

「これだけの大屋敷だ。余程の財も蓄えてあるのだろ」

なるほど――そういうことか。
金目のものを奪うことで、この事件を夜盗の仕業にでもしようというのだ。そうすれば、いくら家主様の幕府との関係が良好でなかろうと、民衆は幕府に疑いの目を向けるまい。
男は、それ以上は語ろうとはしなかった。
夜の冷たい風が、私の肺を侵していく。もしかすると、今回の仕事は情報提供だけで済むかもしれない。――けれど、

「…行け」不意に男が口を開いた。

「家主の首を獲るのはお前の仕事だ」
「……あなたは見張りって、とこですか」

随分といい身分のことですね――飛び出しかけた嫌味を危うく飲み込む。
どうにも、現実はそうは甘くないらしい。まあそんなことは、しのび稼業を始める以前から、知っていたことだけど。
これ以上ここにいては、冷たい目をしたこのしのびに一体どんな暴言が飛び出すかわからないので、私はそれ以上何も言わずに木々の間から飛び下りた。


――家主様は、もしかすると私の顔を覚えているかもしれない。
足が地面に辿り着いたところで、ふとそんなことを思った。仮にも約半年間、一女中として奉公していた身だ。家主様と全くの面識がないわけではないし、顔を覚えられている可能性は十分にある。
そうだったら、嫌だな。そんなことを考えて、私は地面を駆る。松の大樹を抜けたところで、例の離れはすぐ目の前にやってきた。

障子からは、僅かばかりの灯りが漏れていた。家主様はまだ文机に向かっているのだろうか、これから何が起こるのかも知らずに。
私は懐から脇差しを取り出して、それを逆手に握った。

――これが終われば、この任務もようやく終わりだ、

先のことなど私自身にも全くわかっていないけれど、私は頼りない障子に手を掛けて、一気に引いた。



家主様は 既に息絶えていた。



「な、ん…」転がっていた死体に、思わず声が漏れた。座敷には、構わず染料のような赤がぶちまけられていた。辺りには沢山の引っ掻き傷があった。見れば死体には二つの大きな傷がある。ひとつは脇腹、もうひとつは首。捌けたような血だまりの中、その中心にいる家主様の目は、ひどく濁って中空を見上げていた。

どういうことだ。

そのとき、私の背中に強い衝撃が奔った。

「…、!」

真っ直ぐに立っていられなくて、私は思わず前につんのめる。なんとかあと一歩のところで踏ん張ったけれど、足が頼りなく震えていた。ふらりと、それでも私は背後を振り向く。

そこにいたのは三人の男だった。見覚えがあるって、それは、ここまでの道中を共にしてきたからだろう。
中心にいる男の手には、小刀が握られていた。その刀身は確かに血に塗れていて、それが私の血だということに気付くのに、一瞬を要した。ぼたり、背後で音がした。畳の上に私の血もまた、落ちる。

「どういう、ことですか」

私は喘ぐようにそう尋ねた。男は何も答えない。その代わりと言わんばかりに、男は持っていた小刀をこちらへ投げた。
殺気のないその動作によって、小刀は謀ったように家主様の手元に落ちる。
室内のほの暗い灯りの中で、私は他の二人の装束も赤黒く光っていることに気がついた。
酸素の行き渡らない脳でも、だからこそ、事の事情を…少しだけ、把握できた。

――家主様が最後の力で私を斬りつけたように、見えなくもない。

私は片膝をついた。相当、傷は深かった。おそらく、致命傷にはなり得る程に。その証拠に、先ほどから喉を通る空気が、ひどく掠れていた。
そうして私が死ねば、このしのび達は家主様の首を刈った凶器を私の傍らに置いておくのだろう。

――それが、大義名分かよ、
不自然に奉公をやめさせたのも、ここで活きてくるわけだ。

ここで私が死ねばそれではまるで…私が、夜盗である。

証拠隠滅のために、ここまでやるか。心底性根が腐ってやがる、と、三人の男をそれぞれ睨め付けた。

「…先日、幕府城下で小さな諍いが起きた」

その私の視線を受け取って、不意に、男が抑揚なく口を開いた。

「下手人は女だったそうだ。主人を返せ、主人を返せと喧しいから、身元を辿ってみれば、先日殺された小大名のの奥方だったよ」

私の目は、残した余力の分だけ見開かれた。
その暗殺の任務は――他でもなく、私が請け負った任務だ。
あの女の人が去り際に見せたあの目、私を憎々しげに見ていたあの目、
「気をつけろ、あんたは恨まれるしのびだ」、木菟さんの言葉が頭のどこかでよみ返る。


――あーあ、


私は急に、全身の力が抜けていくのを感じた。
多分血が足りないのだろう。手に力は入らないし、目の前は霞んでいる。それでもまあ、こんなもんか、と、また頭のどこかでは納得しながら。
私の心中は、思いの外穏やかである。

それでも、


やっと、私のことを見てくれるひと、いたのになあ――


今際の言葉だけは、聞いてもらえないか、
――なんて、つい昨日のことを、思い返してみたり、して。


私の意識は、確かに沈んでいった。






その意識の端に、私の目の前にひとつの人影があるのを知った。止めでも刺す気なのだろうか、そう最後に思ったけれど、結局は、わからない。



10.12.04