幕府のしのびとの邂逅から、二日。
先日、ここでの私と関わりのあった、問屋のお得意様をひとり殺してきたばかりなので、身の回りの整理は粗方終わったと言って良かった。

問屋を辞めるのには、故郷の母が病気なのだと嘘を吐いた。唐突な話だったので、女中頭は驚いたようだったけれど、気を遣われてしまったのかもしれない、それ以上追及されることはなかった。
屋敷は明日出ることになっている。
同時にこの町も出ることになると伝えてあったからか、好きなところへ行っておいで、と、午後からのお暇を貰うことになった。

夕焼けに染まる街並みを見ながら、私はひとつ息を吐いた。
かと言って、本当は街に出てしたいこともなかったのだ。気が乗らなかったという事実もある。しかし遠慮しているとでも思われたのか、私の意見は聞き入れて貰えず、女中頭は私の意見を無視して外へほっぽり出した。それで不本意ながら、こうしてぶらぶらと街に出ていた次第である。
もうすぐ日が暮れるというのに、街にはかなりの人の往来があった。その往来に併せて、小間物屋に並んだ風車がからからと音を立てて回る。ここはこんなに賑やかな町だったのかと、ふと改めて思った。

「………」

私は先日、この雑踏の中から一人の命を奪った。
問屋によく足を運んでいた初老のその人は、私をよく可愛がってくれた。同じ年頃の孫娘がいるのだと、笑っていたのを覚えている。
当初は殺せるものか否か、不安だったのだけれど――実際に殺すときは、何のためらいもなかった。
――まあ結局、私はこんな奴なのだ。
がやがやと目の前を行き過ぐ人の流れは、未だ途絶えることをしらない。
なんとなくその雑踏を見ていたくなくて、私は自分の手の甲を自分の両の目に押しつけた。

「お待ちどおさま」

私の心中など知る由もない茶屋の娘によって、腰掛けていた長椅子、私の隣に、ことりと三色団子が三本乗った皿が差し出された。

「…ふぅ」

私はそう溜息を吐いて、置かれた団子に手を伸ばした。
そのときである、私の目の前に、ぬっとした影が現れたのは。



「隣は空いているか?」



「え、あぁ、どう……ぞ…」

私の声は、語尾にゆくに連れて掠れていったに違いない。
現れた影を辿っていけば、白っぽい着流しが目に入った。
黒く長い髪を持った、長身の男である。
…何だか、すごく既視感を覚える。

(…気のせいだ)

私は自分にそう言い聞かせた。何せ、私が知っているあの人の恰好と今すぐそこにいる人物の恰好は、明確に違う。あの人がこんな町人らしい恰好をしているはずがないじゃないか。この間木菟さんに会ったばかりだから、こうした行きずりの人をあの人と勘違いして見ているんだ、と、そう無理矢理自分を納得させた。
男は確認を取った通り、団子の皿を挟んで私の隣に腰を下ろすと、徐にその口を開いた。

「久方ぶりだな、

――ああ、やっぱり気のせいなんかじゃない。

「…どうもお久しぶりです、鳳凰さん」

彼を何と呼ぶべきか一瞬迷ったけれど、結局は多分一番しっくり来るからという理由で、私は彼の言葉にそう応える。
服装の違いゆえか、彼の印象はやや丸みを帯びているように感じられた。

「随分と変わった恰好をしているんですね」
「我とて四六時中忍び装束でおるわけではない。流石にこの場では目立ちすぎる故な」
「まあ、それもそうですか」
「こちらの方がお前にとっても好都合であろう」
「別に好都合も不都合もないんですけど…」

まぁ彼の言うとおり、あのしのび装束で話しかけられようものなら、どうにも誤魔化しようがない。任務のことがあるので、こちらに合わせてくれたのなら、それは彼の言うとおり、都合が良かったと形容すべきだろうが、
彼の口振りから察するに、やはりこうして出会ったのはただの偶然ではなさそうだった。

「先日は、木菟が邪魔をしたようだな」

ああ、木菟さんの話か。
私の表情は少しだけ、けれど確かに、苦いものへと変わる。
あのしのびらしいしのびのことは、感傷に浸ろうとしていた今は、思い出したくない。それが実のところの本音だった。

「あれにも色々思うところがあるようなのだがな…然したる用もなく訪ねたのは、お前にとっては迷惑な話だったかもしれん」
「別に迷惑だなんて思ってませんよ。…ただ、」

先日の木菟さんの様子を、思い出す。
しのび以外の生き方を知らないと言った彼、人を殺すのもただ無感動だとそう表現した彼、

「あのひとの目は、怖い目ですね」

木菟という名前に違わず、ぎょろりとした目。けれどあの目が持っているのは蛇のような色でもある。
その点については鳳凰さんも思うところがあるのか、肯定代わりに肩を小さく竦めた。

「あれも中々特殊な生い立ちの身であるからな。お前がそう思うのも、無理はないやもしれん」
「…しのびとしての違いを見せつけられたような気がしましたよ」
「そうであろうな。あの目には、我でさえ怯まされるときがある」

字面とは裏腹に、事も無げに鳳凰さんはそう言った。
先程よりも人の通りは減っているようだった。まぁ当然の次第ではあるだろう、空には藍の色が混ざり始めていた。
団子屋もそろそろ閉まる頃合いだろうな、そんなことを考えながら、私は最後の団子に手をかける。
――本当は、鳳凰さんには会いたくなかったのだけれど。
そう考えたところで、会ってしまったのはもう事実なのだから、仕方のないことのなのかもしれないけれど。
ふと、横からの視線を感じた。
目を向けてみればそこには鳳凰さんの顔があった。

「昨日、一人殺したのであろう」

唐突に、鳳凰さんはそう言った。

「…、な」

咄嗟に、言葉が続かなかった。
何か言おうとしても、頭の中に言葉が浮かんでこない。
どうしてそのことを知っているのだろうか、いや、それよりも
どうして、今その話を、私に振るんだ。

「その表情を見る限りでは、後味の良いものではなかったらしいな」
「………」
「幕府も酷な仕事を与えたものだ」
「酷も何も、…そんなの、仕事、ですから、」
「…お前は――」

私は、人を殺すのが怖い癖に。

鳳凰さんが言い終えるのを待たずして、私は駆けだしていた。
以前とは違って、私は逃げ出したのだ。
怖いと思った。
戻らなくてはならない、折角また少し慣れてきた、汚い世界から引きずり出されてしまうのが怖かった。
すれ違う人々が奇異の目で私を見たけれど、そんなことを気にしていられる余裕は、今の私にはない。

けれど、所詮は町娘の恰好である。走りにくいことはこの上なくて…いや、そうでなくても、どうせ結果は一緒だったのだろう。
丁度街の外れのところで、私は地面に引き倒された。
少しだけ呻いて、受け身を取る。けれどしっかりと地面に足ついた瞬間、今度は仰向けに押し倒される。
鳳凰さんの顔が、すぐ目の前にあった。

少しだけ――泣きたくなった。
このところの懊悩、きっかけはいつもこの真庭鳳凰だったのだろうと思う。
この人が、私の本心を言い当ててしまったときから感じていた、私自身への違和感の正体は、これだったのだ。
自分は人殺しなんだからと、割り切っていた心は、鈍っていく。
押し隠していたはずの本心すら、この人は暴いていってしまう。
それが嬉しかった分だけ――泣きたくなった。


「真庭忍軍に来い」


告げられた言葉に――私は二の句が継げなかった。


鳳凰さんの鋭く縁取られた目が、真っ直ぐに私を見据えていた。
――今、この人は、何と言った?

「真庭の里に来い、

幻聴なんかじゃ、なかった。
ぱちくりと、思わず、二度まばたきを繰り返した。
その様子を見た鳳凰さんは、可笑しそうに小さく笑って、私の上から退いた。

「真庭忍軍は確かに暗殺専門の集団として触れ回ってはいるが、里の者全てが暗殺術に長けているというわけではない。中には情報収集のみを得手としているしのびもいる…人を殺したくないのなら、それで構わん」
「本気で、言ってるんですか…?」
「軽々しい冗談で言えることでもあるまい」

どうしたらいいのか、わからない。私は今どういう行動を取るべきなんだろう頭の中がぐちゃぐちゃだ。
――でも、私は…すぐに断ることをしなかった。
仕事の依頼をされたあのときとは、違って。
これが、木菟さんの言っていた変化の結果なのだろうか。

「そう急いた話でもない。答えが出次第、連絡をくれ」

そして、鳳凰さんは起きあがった私の頭に大きな手のひらを乗せた。
いつかのように頭に載せられたそのてのひらを、今度は払うことができなかった。





10.11.27
11.01.04