私は藪の中にいた。
藪の中の意識はとても不鮮明だ。私はただ見ていることしかできない。体が思うように動かない。当然だ、見ている偶像は、昔の私なのだから。その記憶はとても不明瞭だ。けれど私はいつもいつまでもどこか鮮明にそれを覚え続けている。否、違う。
ある一瞬だけが、私の網膜を捕らえて離さないのだ。
いつかあいした大切な人が、ただ重力にのみ従って地面へと落ちていく。その光景を、私は見ていることしかできない。体が動かない。
その大切な人は死んでしまったのだと、それだけは確信した。
…見ていたのだな。
ぽつり、違うもうひとりが口を開く。
可哀想なものを見る目で、
その違うもうひとりは、藪の中で動けない意識でいる私を見ていた。

『      』

確かに彼は何かを言った。その手が私に伸ばされた。
殺されるのだろう、そう思ったのだけは覚えている。
そこからの記憶らしい記憶はほとんどない。ただ、地面を蹴る感触だけがやけに鮮烈だ。
私は未だ、藪の中にいる。





「……っ!」

私は声にならない声と共に、目を覚ました。
寸刻遅れて、これがうつつであることに気が付く。
見れば、部屋の外はまだ暗い。床についてから、さほど時間は経っていないようだった。
私は弾む心音を落ち着けようと深く息を吐き出して、上体を起こす。汗で張り付く髪を取り払った。背中もまた、嫌な汗で濡れていた。
悪い、夢だった。
元々夢見の良い質ではないけれど、これだけ嫌な夢を見るのはいつ以来だろう。何故か少し自嘲的に思えて、私はふと、部屋の隅にある文机に目をやった。

「――……」

引き摺り戻されたのは現実である。その机には、見慣れない文書が置いてあった。少なくとも、私が床に就く以前には置かれていなかった代物だ。
私は床を抜けて、その文書に目を通した。






内容は言わずもがな、暗殺の決行についてのことであった。






潜入先の問屋からは程なく離れた、小さな橋だった。
造られてからどれだけの年月が経っているのだろうか。綺麗な朱塗りであったろう木々は、もう大部分が剥げてしまっていて、今では随分とみすぼらしい風体である。
川の水流に映る月は、もう霞掛かっている。それゆえ、ほとんど明かりらしい明かりは望めなかった。
やや肌寒い夜の風が、私の頬を撫でて行った。

「…随分遅かったですね」

私は背を向けながらに、背中の向こうにいる人物に声を掛けた。
返事はない。瞰下した先の水面にも、ぼんやりとした月の影が映っているだけだ。
私は小さく溜息を吐いて、肌寒さから少しだけ身じろぎした。

「動くな」

そこでようやく背後の人物の声が耳に入る。その声にはそれほどの抑揚は感じられない。
隠密班の連中は、こう用心が固くて困る。例え今現在の身内であろうと、容姿を見られることをよしとしないらしい。まあ、今の隠密班の大半は伊賀由来のしのびで構成されているから、それもまた、言っても栓のないことなのかもしれないけれど。

「心配しなくても、振り向いたりしませんよ」

背後から刀を突きつけられているような、そんな感覚が背中を走る。明らかにそういう殺気を放っているのは後ろにいるしのびの者で、私が妙な動きを見せれば斬るのもやぶさかではないという腹づもりなのだろう。

――あぁ、この感じは久し振りかも、
その殺気に、今まで自分がいかに安穏と過ごしていたかを思い知った。女中頭に怒鳴られるのが怖いだとか、それどころの話ではない。これだから、潜入の任務は好きじゃないんだ。こうした冷たい感覚を、ふとしたことをきっかけに忘れてしまいそうになるから。

ふと、先日の木菟さんのことを思い出した。
こんなだから、きっとしのびらしくないだなんて、言われてしまうのだろう。
頭の奥がすっと冷える感覚は、先日感じたのと同じ感覚だった。
そのときに木菟さんにも言った通りだ――そもそもは、私自身の意志で踏み込んだ世界なのだから。

「それで、決行はいつなんですか?」
「三日後のこの時間、この場所に」

此処に集合ということは、他のしのびも暗殺に関与するということか。
いい方向に事が運べばいいな、そう考えたけれど、口にはしない。

「それまでに屋敷から暇を貰い、身辺の片付けをしておけ」
「急にお仕事辞めてしまったら、怪しまれませんか?」
「既に手は打ってある。貴様の気に留めることではない」

私はふぅん、と小さく気のない返事をした。幕府の方できちんとしてくれるなら、何ら問題はない。
これで、この任務も一段落というわけだ。
期間としては長いものだったはずなのに、何故か不思議とそれを感じなかった。長期間ながらに、色々と密度の濃い時間を過ごしたからだろうか。

水面に映っていた月が、不意にゆらりと水流に呑まれて消えていった。どうやら、あの黒い雲が月を隠してしまったらしい。
それを図ってか図らずか、まるで合図だったように、背後の男は口を開く。

「失敗は許されないことは、わかっているな」
「そんなの、いつものことでしょう」
「そんないつものことを忘れてやしないかと、確認したまでだ」

男の口振りに、少しだけひやりとした。けれどそこに深い意図があったわけではないらしく、男はそれ以上の行動を起こしてくる様子はない。
「…愚問だとはわかっていますが、」その、抱いているのは私だけかもしれない緊張の中で、私は確かめずにはいられなかった。

「もし失敗したら?」
「貴様の首はない」

私は思わず空笑いが零れた。私怨で始まった任務に巻き込まれて消されるのはごめんだ。
彼らに掛かれば、人の命などなんて軽いものだろう。
それが私が抱くには矛盾した考えであることは重々承知しているけれど、そう思わずにはいられなかった。

「それに、」

背後の男が、初めて事務的ではない声を発した。
それは酷く冷笑的な色を含んでいて、何かあるのか、そう勘ぐったけれど、その答えは次の男の言葉が明確に告げることになる。
男が真っ直ぐに見据えていたのは私ではなくて、ただのその向こうにある空気だった。

「貴様は死んでも、替わりがいるだけだ」

――ちがうんだろうなあ、
その私自身を捉えない男の声を聞いて、私はただ無意識にそんなことを考えた。
この汚い世界は私が自ら望んで足を踏み入れた場所だけれど、
でも、私が欲しかったのはこんな言葉じゃない。

嘲笑に酷く似た声色でそう告げて、後ろにあった殺気は緩やかに消えていった。




「………」
月明かりのないままの夜の中で、私は思わず身震いした。
――こちらの世界は、こんなにも寒かっただろうか。





10.11.23