真っ白な髪を持つ彼女の目的は一体何だったのか、私には知る由もないけれど、彼女は結局何事もなく屋敷を去っていった。
そしてその彼女の来訪から数日、私のもとを訪れたのは、思いもしなかった客人だった。

夜の帳が、今降りようとしている。
本殿より一回り二回り小さい廊下を、私は歩いていた。
大きな屋敷の、その離れである。昔は妾のような存在だったりを住まわせていたらしいが、今はその影もなく、ただ閑散としているのみだった。けれど屋内の物品をただ埃に塗れさせておくわけにはいかないだろうと、掃除女に私が遣わされたのだ。
一緒に来ていた何人かの女中は、既に屋敷に戻ってしまっていた。畳の染み抜きに躍起になっていた私だけが、こうして遅くまで残った次第である。

「…ん」

ふと、何かの物音が聞こえた気がして、私は縁側を見遣った。
いたのは、白い猫だった。
――この間の、
見紛うことなく、この前の迷い猫だ。
その大きい金の瞳が私を捉えるが、その猫は逃げ出すことはなかった。ただじっと私の顔を凝視するだけだ。
自然、私の手はその猫に伸びる。それでも猫は逃げはしなかった。本来、よほど人に馴れた猫であるらしい。喉元を撫でてやれば、猫は心地よさそうに目を細めてすり寄ってくる。

「よし、よし」

こうして悪さをしない内は、可愛いものだ。
私が破顔してしまったのは、ほとんど無意識の内だった。自分でもこんな表情ができるのだと、少し不思議になった。
猫は私の指を甘噛みする。私は縁側に腰を下ろし、その小さな猫の身体を抱き上げた。着物の袖が少し汚れたけれど、別に構わない。後で洗えば済むことだ。

にぁ、
そうして猫を抱き上げた直後、向かいの茂みの方から、声がした。この猫とは別の声である。私の腕の中にいた猫が、ぴくんと耳を立てて、音のした方向へ目を向ける。
もう一匹いたのか、なんて、顔を上げたそのときだった。

「………」
「………」

白髪の痩身。
真庭木菟が、そこにいた。





「忍法吹聴風…ですか。以前も言いましたけど、面白い忍法ですね」

向かいに立った木菟さんに、私はそう言葉を向けた。腰を下ろしたらどうかと勧めたのだが、その仏頂面で「気に掛けずともいい」と言われたので、結局こういう距離に落ち着いた。
訊くに、先程聞こえた猫の声、あれがどうやら木菟さんの忍法であったらしい。あの夜に使っていた忍法と同じものだということで、私はすっかり術中に嵌ってしまったというわけだ。
何故わざわざ猫を真似たのかという問には、「ただなんとなく」という返答を頂いた。

「人間の声も真似できるんですか?」
「無論だ」

意外とあっさり、木菟さんは私の質問に答えてくれた。隠す意味はないと考えているようだ。
声を真似る、技。実際使われてみれば、それがいかに厄介なものかわかる。

「いいんですか、そんな大事な忍法、私なんかに教えちゃって」
「わかっていても防ぎようがないのがこの術の美点だ」

その分地味だがな、木菟さんはそう肩を竦めてみせた。
地味かどうかはさておいて、確かに彼の言うとおりだった。まさか、この忍法を防ぐために聴覚の全てを遮断するわけにはいくまい。

そのとき不意に、私の腕の中にいた猫が、小さくにゃあと鳴いて、その身を捩った。腕の力を弱めれば、猫はするりとその間を抜けて、何処かへと駆けて行ってしまう。
さっきまで大人しかったのに。何かあったのだろうか、そう思ったところで、木菟さんの声がする。

「…怯えられてしまったな」

ぼそりと呟かれた声には、あまり抑揚がなかった。

私は去っていく猫の後ろ姿を見つめて、ようやっと木菟さんに今回の来訪の理由を尋ねようとした。どうして、このようなところへ、と。
以前の任務と、真庭鳳凰の言葉が思い出される。あの任務のときの目から察するに、この人は私を嫌っているのではないかと思っていたのだが、これまでの会話からそれと窺わせるような仕草は見えない。それが逆に怪しさを感じさせたのかもしれない。
私は口を開きかけたけれど、声を発したのは木菟さんの方が幾分早かった。

「先の任務以来、無沙汰しているな」

ああ、来訪の用件はやっぱりその話か、と、
私の表情は自然、やや苦みを孕んだものとなる。
あの任務の話は、私にとってはあまり良い記憶でもない。
そんな私の表情から何かを汲み取ったのか、木菟さんは付け足すように言った。

「別に今更そのことでどうこう言うつもりはないさ。鳳凰どのから、後の話は聞いていることでもあるしな」
「なるほど鳳凰さんから…それなら話は早いですけど」
「――…鳳凰さんと、呼ぶんだな」

抑揚のないままのその声に、私ははたと気が付く。
こうして気付かされなければ気付かなかったほど、何気なく発した言葉だったのだ。
木菟さんは私を見つめたまま、今度はその目を離そうとはしない。その目の中にある感情が何なのか、推し量るのは不可能に思えた。

「いえ…単純に、あなたを木菟さんと呼んでいるものですから、混同しただけだと」
「本当にそう思っているのか」

私は言葉を返すことができなかった。
他でもなく、彼の言うとおり、そうは思っていなかったからだった。
何も言えないでいる私を見て、木菟さんは小さく息を吐いた。小さい動作ではあったけれど、確かにあの迷い猫が去っていた方向を見て、その大きな目は地に伏せられる。

「あんた、以前会ったときとはまた空気が違うな。それがどういう変化なのかは知らんが…
 …そうさな、猫みたいだ」

ぽつりと呟かれた言葉は、どこかからっぽだった。

「最初は警戒している癖に、欲しいものが与えられればすぐに懐く」

字面とは裏腹に、実際の言葉に私を責めているというような色はなかった。
でもそれは確かに、正鵠を射た表現だったのかもしれない。
――欲しいもの、
私の手は己の頭に伸びていた。他でもない、真庭鳳凰が触れた場所に。
私が欲しかったのは、このてのひらの余熱だろうか。

「――あんたとは少し、話がしてみたかった」

その声は、依然空虚なままだ。
言葉から、彼の意図を探るのは不可能だった。呟かれ続ける言葉は、彼の持つ瞳と同じ色だ。

「…そうですか」

その空虚な言葉に返事して、私は改めて木菟さんの表情を見た。
その目は逸らされていて、私ではない地面へと向けられているままだった。

「あんたは、どうしてしのびなんかやっているんだ」

先刻は任務のこととは関係ないと言っておきながら、彼の目が思い出しているのはやはりあの夜のことのようだった。
けれど、彼らしい質問だ、なんとなくそんなことを思った。
私は苦笑混じりに、「ただの意地ですよ」と答える。その考えは不埒なそれなのかもしれないが、決して間違いではない。
実質、私は昔からの意地に意固地になって、忍者を続けているようなものだ。
案の定、僅かにしかめられた表情を浮かべる木菟さん、その目に浮かんでいたのは、明らかな不理解の色だった。

「何の意地かは知らんが、…あんなに辛そうな顔をするくらいなら、あんたはしのびなんか、やめてしまえばいいだろう」

彼女と同じことを言うんだな、なんて、場違いだとは思いながらも、内心少し可笑しくなった。
その言うとおりにできない理由を強いて挙げるなら、もうこんなところまで来てしまったという、ある種の到達感だろうか。
人殺しは、どこまで行ったところで人殺しだ。
――じゃあ、本当のところのしのびは、何を考えて人を殺しているのだろうか、
木菟さんのその目を見て、そんな疑問が不意に頭を擡げた。
私とはまるで違うしのびの価値観とやらが、少し気になったのだ。

「じゃあ聞き返しますけど、木菟さんこそ、どうしてしのびなんてやっているんですか?」

そこでようやく、彼は地面に向けていた顔を上げた。

「………」

その表情は、何より渋面と表現するのが正しい。
このひとの表情らしい表情を見たのは、これが初めてかもしれない。それだけ苦々しいでいて、その大きな目は今度こそ私に向けられていた。

「考えてみたこともないな」

私には、理解できそうもない言葉だった。

「…何も考えずに、しのびをやっていたんですか?」
「ああ」

私の問いに短く肯定を返して、木菟さんは何の感情もない目で私を見た。
今はあくまで一女中として振る舞っている、私の姿を。

「こうも奉公人に同調しているあんたとは違って…俺は、これ以外の生き方を知らない」

うわばみに睨まれたような悪寒が、私の背中を走る。
別に、木菟さんが私を蛇睨んでいるわけではない。単純に、私自身がこの目を恐れているだけだ。
――理解できない、感情。
鳳凰さんの言葉が、再び頭をよぎった。
木菟さんにとって、私を理解できないということ。同時に、私にとって木菟さんの考えていることが理解できないということ、

「……木菟さんは…例えば人を殺すとき、何を考えているんですか」
「何を…何を、か。こうして考えて答えが出ない時点で、何も考えていないに等しいやもしれんな」

このひとは多分、しのびそのものなんだ。
私が悩んでいたことも全部が全部、きっと彼にとっては些事でしかないのだろう。
彼が私に対して抱いた不理解と、また私が彼に抱いた不理解は、そこから生まれ出でていたものなのだ。
しのびらしいしのびと、しのびらしくないしのび。
考えるまでもなく、この二つの考えが同調することなどあり得そうもなかった。

「…どうにも、あんたはわからん」

やがてそう呟かれた木菟さんの言葉に、偽りの色はなかった。

「こうして話してみれば、何か掴めることがあるかとも思ったが…
 だが、あんたがしのびとして致命的なくらいに甘いことだけは、わかったつもりだ」
「そう、ですね…否定のしようもありません」
「そんな考えで…この仕事を続けるつもりか?」

その言葉に対しても、私は否定の言葉を持たなかった。
ただ、このところの自分が、特に感傷的だったことは確かだ。
このままじゃ、いけない――
そのくらいの自覚は、ある。
あの手のひらの温度に、いつまでも甘んじていては、ならないことくらい。

「あんたのやり方は以魚駆蠅…しのびがひとり殺せないということは、ひとりを助けることじゃない。ひとりに禍根を残すということだ」

木菟さんの目は、そこですっと細められた。僅かながら、その目の奥には確かに色が宿っていた。

「気をつけろ、あんたは恨まれるしのびだ」
「…わかってますよ」

自分の声に、脳の芯がすっと冷えたような気がした。
私の内心を知ってか知らずか、木菟さんは、「そうか」と小さく呟いて、ふっと息を吐き出した。ともすればそれは、笑っているようでもあったので、僅かながらにその場の空気は弛緩する。

「鳳凰どのは、あんたをいたく気に入っているようだ――あるいは、そういうところが、な」

木菟さんがその言葉の裏に潜ませた意図を、そのときの私は悟ることができなかった。
そうして踵を返したその木菟さんの背中を、私は何も言わずに見送る。
――不意に、奥の茂みから、にゃあと猫の声がした。

「…帰ってきたようだぞ」

木菟さんはそう言っただけだった。その声にもやはり、人間らしい色は感じられなかった。





10.11.19