私は廊下を駆け回っていた。

「ああもう、どこ行っちゃったかな…!」

溢れた言葉は、繕うこともない、間違いなく私自身の本音である。
走りにくい小袖の裾を気にしながら、私は町娘としてできる限りの速さで、駆ける。

経緯は至って簡単だ。
庭先に迷い猫がいた。恐らく第一発見者であったろう私は、その猫を屋敷の外へ追いやろうとしたのだが、猫はあろうことか私の横をすり抜けて、屋敷の中へ入ってきてしまったのだ。
色々なひとに協力を求めてはいるものの、未だ猫は逃走中である。今日は客人が見えるということもある、こんな様を女中頭や家主様に見つかれば、どやされることは確実、状況次第では猫もろともこの屋敷から追い出されるかもしれない。
任務のためにも、そんな自体は絶対に避けたい。
時折聞こえる悲鳴から、その迷い猫が何か悪さをしでかしていることは想像がついた。早く捕まえなければ、これ以上被害が拡大する前に!
そして、渡り廊下の突き当たりの角をひとつ、曲がろうとしたときだった。

――いた。
白い猫は、我が物顔で屋敷の廊下を闊歩していた。
次の悪戯を探しているといったところだろうか。その目は好奇の色があるものの、警戒の色はなさそうだった。私は小さく笑みを漏らしたところで、今回のために持ち歩いてきた道具を取り出す。
所謂、干し魚である。
保存食用に作ってあったものだが、まあ、ひとつくらいちょろまかしても問題はないだろうと、こうして役立てるために持ってきた次第である。(こういうとき、素直に忍法が使えないのは実に面倒だと思う)
私は、そっと猫が来るであろう曲がり角に、それを仕掛けた。
当の私は、横の部屋(今は空き部屋となっている)を通って、いつでも猫の背後を取れるように構える。

猫は角を曲がったところで、干し魚の存在に気付いたようだ。
猫が干し魚に飛びつくように、私は猫に飛びついた。猫はそこでようやく私の存在に気が付いた。けれど時既に遅し、私がしっかりと掌に感じたのは、猫の柔らかい毛の感触だった。
私は腕の中の猫に気をつけながら、音もなく受け身を取った。猫は最初、捕らえられた驚きと警戒とで暴れていたが、私がそれ以上危害を加えないことを知ると、次第に大人しくなっていった。
これで一件落着か、そう思って、私はふうと溜息を吐く。

干し魚も回収し、猫は玄関口から逃がした方がいいだろうかと、立ち上がったときだった。
渡り廊下の向こう、私が来た方向とは逆のところから、二人の人影が姿を見せた。

――なんで、

内ひとりは、この家の奉公人の男だった。もうひとりを先導するかのように歩いている。
ああ、後ろの人は、もしかすると客人だろうか。
そしてもうひとり、その客人の姿を認めたとき、私の顔は自然強張った。驚きの感情が私の内心の九割を占めた。
私より寸分遅れて、向こうも私の存在に気が付いたようだった。最初こそ他人のそら似かとでも思ったようだが、近づいてくるにつれて、そうではないと勘付いたらしい。その他の人とは質を違える目の端で、確かに私の姿を捉えた。
彼女の持つ、長く白い髪が揺れたところで、腕の中の猫が小さくにぁと鳴いた。





襖をそっと後ろ手に閉めたところで、私は今まで押し殺してきた空気を一気に放つように、「もうお気に掛けずとも大丈夫ですよ」と言った。念のために周囲の気配を探ってはみたが、私たちの存在以外に、聞き耳を立てているような輩の気配はない。目の前に既に座していた彼女は、それでもどこか神妙な空気を崩そうとはしなかった。

「まさかこんなところでそなたに会うことがあろうとはな」

彼女の話を聞きながらに、彼女の前に先程淹れてきた茶を置き、私は客間の真綺麗な畳に膝をついた。猫は先程、干し魚を与えて外へと逃がしてきたところだ。
まさか彼女は、私が純粋に奉公しているとは思っていないだろうと、肩を竦めることを返答代わりにした。聡い彼女は全て悟ったらしく、それ以上追及して来る様子はなかった。

「私も驚いてますよ。こちらへはどういった御用向きで?」
「何てことはない、ただの私用だ。そなたが気に掛けるようなことでもない」

そう言って、彼女は置かれた茶を啜った。
それが真意でないことはすぐにわかったが、私も深くは追及しなかった。彼女が何かを悪巧んでいるのはいつものことだから、今更そのひとつを深く探ったところでどうしようもない。
考えてみれば、こうして会うのは実に久方ぶりだった。以前会ったときよりも、彼女の髪はかなり伸びていて、意匠もまた随分派手になったようだ。
まぁ、変わるのも無理はないのかもしれない。最後に彼女に会ったのは、以前任務を請け負ったとき以来だから、かれこれ半年ほど前のことだ。

「これほどの大屋敷に客人として招かれるまでになったとなると…幕府内での貴女の地位も、それなりのものとなったと受け取っていいんですかね」
「まぁ、最後にそなたに会ったときよりかはな」

事も無げに話す彼女だけれど、賢いことに変わりはないように見受けられた。こうして私とこの白髪の女が向かい合って座っているのも、全てこの彼女の機転の賜である。
私とすれ違った直後、彼女は目の前の奉公人の背中に『長い旅路で喉がからからだ』という旨をそれとなく、けれどことの真意が伝わる程度に明確に、屋敷の男に述べたのだ。男が、近くにいる女中であるところの私に、茶を用意しろと声を掛けるのは自然のことだったと言っていい。
家主が来るまでの繋ぎの時間だ。
だから、彼女とこうして話すのも、限られた時間のことである。

「聞き返すことになるが、そなたこそどういった用向きで此処におるのだ?」
「これにも幕府が絡んでいることだけ伝えておきます。あんまり話すと、首が飛ぶのは私の方になりそうですから」

彼女は、それこそが私を呼び止めた本当の理由というように、そう話を振った。
任務の詳しい内容は話すわけにはいかないが、ここで偽りを述べる必要もない。
私が匂わせた裏の言葉を、彼女はすぐに悟ったらしく、短く「…幕府か」と呟いた。

「半年ほど前になるか…あれから、何度かそなたに仕事を任せよう動いておったのだが、道理で連絡が取れぬわけだ」
「どうにもこのところは上層部からの依頼が多くて」
「それはまた、綺麗とは言えぬ仕事ばかりだろうな」
「ええ、まぁ…しのびの仕事に、綺麗も何もありませんから」

私の返事を受けて、目の前の彼女は何故か閉口した。
その目は真っ直ぐに、私の目を見据えている。まるで、その奥にあるものすら見透かしているかのように。
彼女とは、深からぬとも浅からぬ付き合いだ。先述した通り、何度か仕事も請け負っているし、頭の良い彼女のことだから、私の仕事振りについては色々と思うところがあるのだろうが。

「…上手くは言えぬが…、しのびとは、しのび以外のものにはなれんものなのか?」

その言葉の意図するところは、何となく、理解できた。

「…ええ、そうですね」
「……つかぬ事を訊いたな」

彼女は何事もなかったかのように茶を啜る。
そろそろ、家主様もお見えになるか。
私はそこで席を立つことにした。これ以上長居して、彼女との関係を深読みして怪しまれでもしたら面倒だ。私は最後に、間もなく家主様が来られる旨を伝えて、襖に手を掛けた。





10.11.18