あれからしばらく、真庭忍軍と関わり合いになることはなかった。
別に連絡を待っているわけでもないが、後になって考えてみれば、随分と味気ないんだな、なんてそんな風に思う。
時間が経つのは早いもので、真庭鳳凰との最後の邂逅から、早くもひと月が経とうとしていた。
――まぁ、たった数日の間に起こった出来事だったから、当然といえば当然なのかもしれないけれど。ひと月前の自分にとっては必死で、そのときの私にしてみれば、濃密すぎる数日間だったけれど、終わってみれば案外呆気ないものだった。それだけ真庭忍軍が、真庭鳳凰が唐突に私の人生に絡んでいたという、思えばそれだけの話でもある。

けれど、私はそれを、突然降りかかってきた災厄だとは到底思えなかった。
まぁ、これからも真庭忍軍と関わることは向こう暫くないだろう。今回のような例が特異だったのだ。もしかすると、もう二度と相まみえることはないかもしれない。
そう思うと、少し寂しくもあるけれど。
私はさして意識もせず、己の髪を一度だけ梳いた。

まあ、今までの日常に戻るだけだ。
そう納得して、私は本来の仕事のために頭を切り換えた。

ねぇ、聞いた?

ひとつ、声が耳に届いたのは、そのときだった。
廻船問屋の大屋敷の、その渡り廊下。白昼堂々こういった場にいるのは、言わずもがな潜入任務であるからだ。
結局真庭鳳凰は先の任務のことを幕府に報告しなかったらしい。私はこの任を継続して任されていた。
外の石畳の上を整えていた女中の、その片方の声だ。こそりと顰められた声は、私のような傍聴者の存在に勘付いてもいないのだろう。
この前家主様が町に出られたとき、家主様、ぶつかってきた子供を蹴飛ばしたって。
え…そんなことがあったの、…ひどいことするわね。
そうよ、その前なんて…、

そこまで聞いて、私は止めていた歩を進め始めた。わざわざ立ち止まって耳を傾けるほどの情報ではなさそうだ。よくある、ただの陰口というやつだ。

――子供を蹴飛ばした、
ここの問屋の家主様、彼にそういう気性があることは、こうして女中に扮していれば自ずとわかってくることだし、潜入前の予備知識としても多少なりと知っていた。
その気性が災いしているから――こうして幕府から命を狙われることになるのだ。

以前、幕府の重役がこの屋敷を訪ねたことがあったらしい。しかし家主様はそれを部下に門前払いさせ、本人は影すらも見せなかったのだ、そう聞いた。
今回の任務の依頼主というのが例の幕府の重役で、どうしてこの屋敷を訪ねたのだとか、そういった経緯は全く話されなかったけれど、…今回の任が依頼主の私怨であることは明らかだった。それでも幕府の名を借りて、私に仕事を依頼した。自尊心も仕事の一環だろうか、よくもぬけぬけとそんなことができたものだ。

今の段階は、よく言えば不確定要素の詮索、悪く言えば悪口探しの粗探しだ。
幕府の内情は私なんかが思っているよりも幾分複雑らしく、こういった殺しをする際には『大義名分』なるものが必要らしい。
こうして潜入している内に、ここの大名が外側で聞くより己の領では横暴に振る舞っていることがよくわかった。それに辟易している奉公人がいることも。

そういう点では、私の任務が『潜入』から『暗殺』へと移行するのはそう遠くない未来と取れた。

『私怨』が『粛正』に。何とも簡単で都合の良い話だ。
そろそろやめておこうよ、これが知られたら首をきられちゃう。
そのとき聞こえた声に、全くその通りだと思いながら、私は無意識に自分の頭を一撫でした。





「…珍しいわね、あんたがそんなに誰か他人にこだわるだなんて」

雑木林の奥まったところにある、それはほとんど森と形容しても差し支えはない程度に深く木々が原生している場所だった。
夜もまた深いというのに、そこにはふたつの人影がある。
ひとつは女、ひとつは男。
どちらも、身体にぐるぐると鎖を巻き付けている、珍奇な衣裳であった。

「でも、こうして話聞いてる限りじゃその子…しのびには向いてないわよ」

女の言葉には、その端々に少量の苦みを滲んでいた。

「まぁ、向いてる向いてないなんて一口に言える話でもないんだけどさ…しのびらしくないしのびっていう括りで考えるなら、あたしだって例外じゃないし、初代の喰鮫ちゃんなんてその究極系だし」

男は何も答えない。その様子を見窺って、女は言葉を続けた。

「ただ、味方だけじゃなく敵も殺しきれないってなると、正直しのびとしてどうかと思うわよ、その子」
「…随分と不服そうだな」

その言葉を受けて、男はようやく返答した。その女の言葉を予測していたかのように、動じることなく、何か含みがあるように。

「それとも、おぬしには何か思うところがあるのか?」
「……別に、今更相生忍軍がどうこう言うつもりはないけどさ」

言葉とは裏腹に、一瞬だけであるけれど、女の目はどこか遠くを見つめた。この場にそぐわず、まるで、昔の出来事を懐古しているような様子で。
やがて踵を返したのはひとつの影。女の方だった。その背中は、もう話は纏まったと言わんばかりだった。

「ま、あんたが決めたことなら、あたしがどうこう言うものでもないわ――好きになさいな、鳳凰ちゃん」

そう言った次の刹那には、既に女の影はなかった。
男は暫しの間、考えるように場を離れようとはしなかったが、やがて思い至ったかのように、その場から姿を消した。





10.11.08