私の足は茂る木々を駆っていた。
真庭木菟と任務を共にしたあの夜から、幾日か過ぎた晩のことである。
私が向かっているのは、幕府のその本拠だった。とりあえずの任務は終えたことの、報告のためである。
そして、もうひとつ。今回の報酬は受け取れないということを、伝えるためだ。
いくらなんでも…あんな私情を巻き込みすぎた不格好な仕事で、金子など受け取るのもおこがましい。
あのときの、木菟さんの目が思い出された。私が事をし損じたことを知ったとき、私に向けられたのは明らかに不理解を孕んだ目で、ああやっぱりこの人達のような真性の忍者と私とでは生きている次元が、生きている程度が違うのだと、そう思った。
後から木菟さんの片付けた二名の死体を見た。完膚無きまでに、それは死んでいた。
私なんかとは違う、
逃げたあの女の人は、どうなったのだろうか。生きて欲しいだとか、そんな押しつけがましいことを思うつもりはない。何故なら私は、あのとき単純に人を殺すことを嫌がっただけで、それは至極身勝手極まりないことだから。
――ああ、やっぱりここ最近の私、変だ。
以前なら、こんなことでここまで深く考えることも頭を抱えたくなることもなかったのに。いくらなんでも、あんな形で事をし損じるなんてこと、なかったのに。
それもこれも、やはり真庭忍軍の存在が絡んでいるのだろうか。
どうしても、調子を狂わされる。
こうして任も終わった今、もう真庭のしのびとは関わらないようにしよう、そんなことを考えたときだった。
びん、と、足下で糸の張る感触。
「、!」
咄嗟に後ろに飛び退いた。目の前を鋭利な刃物が掠めていって、髪を幾筋か持って行かれる。まさに間一髪だった。
完全なる不意打ちだったと言っていい。
敵がいる、次いで頭がそう理解したとき、相手は既に動いていた。ひとつの、人影。手元に煌めいているのは、間違いなくそれで身体を貫かれれば死ぬであろう代物だ。
私は突きだした手甲で、その刃を受ける。じんと、腕の奥に奔る痺れ。これは暫く、左手の感覚は戻りそうにない。
私は懐から脇差しを取りだした。言わずもがな、反撃するためである。
刀身をぶんと一振りすることで、懐紙を全て取り払い、その刃を相手に向けようとしたところで――
――私は、動けなかった。
男が、先日逃した女と、同じ目をしていたからだった。
動けなかったのはたった一瞬である。けれど、その一瞬が命取りだった。
男は真っ直ぐに持っていた刀を突き出してきた。かなりの身長差があったため、その切っ先は私の目線の先にある。身体が避けなければという思考についていけない。
まずい、
そう思ったとき、刃はすでに私の眼窩に突き刺さろうと、して。
「――気の緩め過ぎだ」
けれど。
その切っ先が、私の頭蓋を貫くことは、なくて。
突然目の前に現れた人物が何者であるかを理解するのに、もう一瞬を要した。黒く靡く髪。とてもよく、見覚えがある。
「これでは幾つ命があっても足りんな」
決して華奢なわけではないしのびの腕を掴み上げながらそう事も無げに言って、真庭鳳凰は後ろ手に私を見遣った。
「なん…で、ここに、」
「さて、な」
彼は明らかな動揺を湛えた私の言葉をさらりと流して、掴んでいたしのびの腕を更に強く締め上げた。ぎし、と、相手の腕が軋む音がこちらまで聞こえ、しのびの男はぐぅと声を漏らす。真庭鳳凰はそんな男の様子など意にも介さず、私に向かって何か言おうと口を開いた。
けれど、それは声になる前に嚥下される。
追いつめられた男は、突如雄叫びを上げると、腕が掴まれているにも構わず、手に握ったそれを、そのまま真庭鳳凰の胸へと突き刺そうとした。
それでも真庭鳳凰は、慌てる様子を見せなかった。
相手の持っていた刀を指先で小さく弾き、柄を自分の方へ向ける。そこから突き出された刀が、相手の胸元へと深く突き刺さり、…鮮やかな、奪刀だった。
「やれやれ、勢い余って殺してしまった」
大したことではないと言わんばかりの声色で、彼がそう呟いたときには、既に男は冷たい地面へと転がっていた。
「訊きたいことが一つ二つあったのだが…まぁ、よかろう」
しのびの男の様子が豹変したとき、懐から取り出していた脇差し、それを握る力が急速に弱まっていく。
何だというのだ、この感情は酷く安堵に似ている。
脇差しを持った私の手を見て、真庭鳳凰は私が取ろうとした行動全てを見透かしたようだった。
「この男に見覚えはないか、」
「あ…いえ、…恨みを買うことは、沢山やってますから」
男の姿に見覚えはなかったが、私に斬りかかってきたときに見せた、あの目のことが少しだけ気になった。
主君殺しの仇討ちだったのかもしれない。今となっては真相は藪の中だけれど。…もしそうだとすれば、このしのびは、随分と人間らしいしのびだ。
「あ、の――」
私が真庭鳳凰に向けようと思ったのは、それに関しての自虐的な話題ではない。
ただ、…上手く、言葉が続かなかった。
だから、咄嗟振ったのは、私が本当に言いたかったこととは全く別の話題だった。
「何故、このようなところへ?」
「先の任務の礼を言いに伺おうと思っていた。まさか、こんな状況になっているとは思わなかったがな」
皮肉るようにそう言われたが、私が真庭鳳凰を真っ直ぐに見ることができなかったのはそれが理由なわけではない。
簡単なことだった。彼の言う先の任務の出来について悶々としていた結果、こんな無様な状況が生まれたからだ。
私は恐らく、酷く苦い顔をしていたのだと思う。目の前の彼はその表情に気付いたらしく、私の内心を知ってか知らずか、「どうした」と声を掛けた。
「…前の任務のことは、聞いてるんじゃないですか」
あのことは、間違いなくつまびらかに報告されているだろう。
真庭鳳凰は何も答えない。それを肯定と受け取り、私はひとつ息を吐き出して、肩を竦めてみせた。ともすれば、開き直ったとも見えるように。
「報酬はいりません、幕府に報告するもご自由にどうぞ」
後半の方が、若干語調が強かった。
これで幕府との契約を切られることになっても、別に構わないと、ふと思えたからだ。
今回のことが知れれば、芋蔓式で今までの取り逃がし分も暴露されていくだろう。ひと月くらい前からこなしてきた潜入任務も、これでおじゃんだ。その任務中途までの報酬も受け取れはしないだろうが、まぁ、良い。
そちらの側から報告してくれるなら、手間が省けて丁度よかったと、半ば嬉しくもあった。
「いや、それには及ばなかろう」
彼を見る私の目は、自然と訝しみを帯びたものとなる。当然だ、そうしたところで、一体彼らに何の利益があるというのか。
私の視線を受け止めた真庭鳳凰は、事も無げにこう答えた。
「我はお前の働きに満足している」
だからといって、
私の口は勝手にそう言葉を紡ごうとした。…ああ、おかしい。そんな風にしたところで、それこそ私に何の得があるというのだろう。これではまるで、本当に幕府との契約を切って欲しいみたいじゃないか。
けれど、真庭鳳凰の声が聞こえたのはほぼ同時で、私の声が形になるよりも幾分早かった。
「お前は、しのびらしくないな」
「――…、」
彼の言葉に、私は自分の声を無意識に嚥下してしまう。
以前にも、同じことを言われたと、思い出した。あのときはただの偶然だったけれど、今回は違う。真庭鳳凰の目は真っ直ぐに私の目を射抜いた。
「先程の様子を見ていて確信した――お前は、ひとを殺すのが怖いのだろう」
まるで、正鵠を射ている。
自分の欠点をまざまざと見せつけられることが、こんなにも気持ちの悪いことだとは思わなかった。今まで誰も干渉してこなかった私の本心が、こうやって暴かれていくのが、…
けれど、それが本当に嫌だったのなら、私はここで逃げ出してしまえば良かったのだ。
「木菟は釈然としない顔をしていたよ。確かに、あれには理解できん感情だろうな」
そうだろう。しのびは信用が第一の武器だ。主からの信用なくして任務はこなせないし、同時に稼ぎの面でも支障が出る。だから木菟さんがそう思うのはごく自然のことだ。
――でも、私、は、
その場から一歩も動かないでいる私に、真庭鳳凰は音もなく手を伸ばした。
ひとつ、髪を撫でられる感覚に、私はそこでようやっと我に返る。
「!!」
頭に乗せられたてのひらを払い除けて、私は真庭鳳凰から距離を取った。
「…そう威嚇する分には、随分と獣染みているのだがな」
余裕そうな笑みを浮かべたまま、真庭鳳凰は皮肉るようにそう言う。
私が既に臨戦態勢なのもどこ吹く風だ。
「兎も角、先の任務はご苦労だった。報酬は幕府を通じて支払われるだろう」
報酬はいらないと言ったはずなのに、まるでなかったようにされた。
幕府へ報告するしないは相手の勝手だとしても、報酬は自分の仕事に納得が行っていないから受け取らないというものであって、
「ちょ、っと…!」
私は彼を呼び止めようとしたけれど、次の瞬間に吹いた風の後に、もうその姿はなかった。
「――…」
何なんだ、一体。
木菟さんは私に不理解を示したと言っていたが――私には、真庭鳳凰という男が理解できそうもなかった。
――ああ、そうだ。助けてもらったお礼、言いそびれてしまった。
その言葉を咄嗟呑み込んでしまったのは、他でもない私だけれど、…
彼に触れられたところが仄かにあたたかいのは、ただの思い過ごしだろうか。
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10.11.04