痩身の男だった。
あまり背丈が高いという印象は受けない。しのび装束であることに変わりはないが、その細身の身体には無骨な鎖が巻き付いている。自然体なのか逆立てているのかよくわからない白い髪を持っていた。
白い髪。
思うところというか思い出すところというか、そういうものがないでもなかったが、この場においては関わりのないことなので、私は何も口にしなかった。
「真庭木菟」
ぼつりと、突然男は口を開いた。
字面から察するに、それが男の名前なのだろう。私が木菟どの、と鸚鵡返ししたところで、彼は「あぁ、」と思い出したように口を開いた。
「堅苦しいのは嫌いだ。木菟でいい」
そう言う彼に、けれど初対面の相手にそういうわけにもいかなかろうと、私は「木菟さん」と呟いた。少しの間を置いて、けれど彼が肩を竦めてみせたので、それを了解の合図とする。
「です」私も短く自己紹介をした。
私が真庭鳳凰から請け負った任は、所謂囮役だった。
今回の仕事…暗殺を遂行するには、どうにも警護が固すぎるとのこと。そこで必要となる、攪乱役というわけだ。
そう聞いたときは、どうして私が必要になるんだ、真庭忍軍のしのびから攪乱役を出せばいいじゃないか、そう思ったのだが、どうにも真庭忍軍のしのびというのがまた個性的な連中らしく、そういう役回りには向いていないらしい。
一体どんな奴らの集まりなんだ、そう思って、今回仕事を手伝うに当たって、ある程度の覚悟というか警戒というか、そういうものも用意したのだけれど。目の前にいる男は、特に危殆であるようには見受けられなかった。
「鳳凰どのから話は聞いている」
「私のことを、ですか」
目の前の男は首肯する。
話を聞いているということは、私が幕府の紹介でこの任を手伝うしのびだという経緯も聞いていると受け取っていいのだろう。
私はそう納得したけれど、次に木菟さんが話したのは私の予想に反することだった。
「あの鳳凰どのが指名したというから…どんなしのびかと思っていたが、」
「ちょっと待ってください」
木菟さんの言葉を遮って、私は咄嗟に口を開いていた。
今、何と言った。
真庭鳳凰が、私を指名したと?
聞いていた話とは全く違う――私はてっきり幕府のお偉いさんが勝手に私を任に向かわせたのだとばかり思って…
…いや、それも違う。彼は何も言っていなかった。それが正しい。私があのとき、勝手に納得しただけだ。
「何か不都合でもあったのか」
遮っておいて何も言わない私を、木菟さんは怪訝そうに見ている。
「…いえ、何でもありません」
……真庭鳳凰の、意図がわからない。
けれど、今はそんなことを考えている暇はなさそうだった。
深更に吹いた生温い風に、木菟さんもそれを感じ取ったらしく、「そろそろゆくか」、そう呟いた。
*
「……あれですね」
私たちは茂る木々の硲に身を隠しながら、目下を通り抜けんとする小規模な行列を見下ろしていた。
旅の途中のような出で立ちだったが、思っていたよりも人員が少ない。標的である成り上がりの小大名を、四人の武芸者が守りながら道中を入っている。お忍びでの外出であろうか。
「あれなら、あなたひとりでも行けたんじゃないですか」
一行の様子を窺いながら、私はそう呟いた。聞いていたほど、警備が固いという様子ではない。
それに対して、木菟さんは小さく首を振る。
「いや…此処から見てわかるように、相当に腕の立つ武芸の者だろう。乱波が不意を打てたところで、鎧袖一触どころか返り討ちだろうな…それに、」
木菟さんの目は、真っ直ぐに標的だけを見つめていた。
「俺の忍法は、そんな乱戦向きじゃない」
そして彼は、自らの口元にその掌を添えた。
忍法吹聴風、
そう小さく言って、何かを呟く。近くにいる私にも聞き取れないような、ともすれば口だけを動かしているのかと思ってしまうほどに小さな声で、彼は確かに何かを言った。
「だ…誰だ!」
気付かれたか、一瞬そう考えて、すぐにそれは撤回される。
標的の目はこちらを向いてはいない。それどころか見当違いのところの茂みを見遣って、そう叫んでいるのだ。
私は、木菟さんを見遣った。木菟さんは肩を竦めて、「幻聴が聞こえたのやもしれんな」と、事も無げにそう言った。それが彼の忍法であることは明らかだった。
「面白い忍法ですね」
「お褒めに預かり光栄だ」
周囲の者は、声が聞こえただの何だのという主君を必死に宥めている。今まで張りつめていた気が、確かに散漫になっていた。行くなら今か、私は木菟さんに一瞥投げかけると、木の幹から飛び降りた。
私の忍法は、こういう行動に至る際にこの上なく便利である。
結果、その場にいた輩達が私の存在に気付いたのは、ひとりの武者が喉元を掻き切られてからだった。
「――乱波か!」
そう声を上げられたところで、私は一枚の手裏剣を今回の標的に向かって打ち付けた。案の定、その手裏剣は別の武者の手によって遮られたが、それでいい。私の目的がこの御仁であると思わせるのが目的である。
私は踵を返して駆け出した。やはり、待たれいと後ろから声がして、追いかけてくる気配がした。ふたり。ひとりは標的の警護についたと見えるが、まあ私が二人担当すれば何とかなるだろう。
相手が私を見失わないように細心の注意を払いながら、暫く駆けたところで、私は前触れなく跳び上がった。後方の二人からしてみれば、私が突然消えたように見えただろう。
手裏剣をを立て続けに三枚、ひとりの武者の方に投げつける。さすがに飛んできた殺気には勘付いたらしく、武者は抜いた刀で、手裏剣を一閃した。
「うおっ、!」
弾くのではなく、弾き返して来たのだ。それは想定外だったので、私は空中で上手く避けることができない。薄い鉄の塊が、頬と左腕を掠っただけだったのは幸いだった。
武者の一瞬の気の緩みだった。飛来する危険物を上手く返したところで、少し慢心したのかもしれない。私が真っ直ぐに向かっていることに気付くのが、少しだけ遅かった。
ごきん、
ふたり、め。
首のねじ曲がった身体は、どうと後ろに倒れていく。首を捻り上げた感覚が鮮明に掌に焼き付いて、気持ちが悪かった。
あとひとり殺さなくてはならないのか、そう考えながら、斬り結んできた相手の刀を、脇差しで受け止めた。転がった死体は見ないようにした。
「何事だ!」
ああ、新手だ。
すると、私たちが来たのと反対方向から聞こえたもうひとつの声。私の姿を視界にいれて、その男も刀を抜く。一行の後方控えていたのか、なんて推測ながら、私は小さく溜息をついた。
今日は合計で四人も、人殺しをしなくてはならないらしい。
*
「――、っひ…」
聞こえたのは、小さな悲鳴。
私はゆっくりと、声のした方向に目を向けた。
いたのは、女。旅の衣裳のよく似合う、綺麗な女の人だった。私とは大違いだと、場にそぐわずそんなことを思った。
女の人は少しの間、返り血を浴びた私を恐ろしげに見ていたが、やがて視線は降下する。転がった三つの死体を見て、恐怖の中彼女の目に浮かんだのは明らかなかなしみで。彼女が彼らと関係があったことはすぐにわかった。
――標的のご内儀か、はたまた妹君か。
どちらかだろうとは、思うけれど。
そのどちらかだったところで、本来ならどうだっていいことだった。
「…逃げてください」
それでも、私の口から溢れたのは、そのしのびとしてのやり方とは正反対の言葉で。
間違いなく、私の本心だった。
女性は戸惑ったようだった。無理もない。私がもし彼女だったら、これから自分が殺されるであろうことはすぐに予想がつく。その予想とは真っ向から反対のことを言われれば、動揺するのも仕方ない。
けれど、そこからのその女性の行動は早かった。私を一瞥すると、くるりと踵を返して駆け出した。私は追わなかった。
「………」
私を見たあの目は、
様々な色を湛えていた。その中で一際目立ったのはやはり、憎しみの色だった。
「どの、」
不意に降ってきた気配は、木菟さんのものだった。
「順風満帆とまではいかなくも、こちらは滞りなく終了した」
「そうですか、…それは良かった」
「あんたの方も、特に、――」
木菟さんはそこで言葉を切った。もう気付かれたのか、思ったより早かったなと内心苦笑する。
木菟さんの目の先を折ってみれば、そこには一足の雪駄が落ちていた。あの女性が逃げる際に脱げてしまったのだろう。「あんた、まさか…」その先に続く言葉は簡単に予測できた。やはり、彼らのようなしのびにとって、私のようなしのびの存在も、その心理も、理解しがたいものなのだろうが、今更何を言ったところで手遅れなのだから仕方がない。
私は、しのびとしても甚だ失格であるのかもしれなかった。
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10.11.02