私は、幕府に身を置いているしのびだった。

それはあくまで『今は』という話であって、それ以降拠り所が変わらないという話ではない。
よりよい報酬を出してくれるというのならそちらに身を預けるつもりでいるし、つまり私は幕府で口過ぎをしているだけだ。だから、私に幕府に対する忠誠心なんてものは一切ないのであって、それに準ずる執着めいたものもまた、ない。
それを相手方も見越しているのか、幕府内の機密なんかが絡む仕事は全て自陣の隠密班に任せていた。私に回ってくるのは、ほとんどが外回りで危険な仕事ばかりだ。

だから、先日のような任務が回ってくるのだ。
幕府の方がどこまで知っていたかは知らないが、真庭鳳凰と対峙した状況、あれは一歩間違えれば私の命はなかった。
それもまた、幕府という単位で見れば、ただの些事でしかないのだろうけれど。

外で見ているより、幕府の内部は綺麗なものではない。上層部が特に顕著であるけれど、彼らが人を殺す理由はいつだって簡単だ。目障りだからとか、自分の出世に関わるからとか、大抵はそんなもの。それでいて、彼らは自分の手を直接汚すということをしない。

まあ、何やかやと言ったところで。
根本のところ、私が人殺しであることに変わりはないのだけれど。

!何もすることがないんなら、さっさと水を汲んでおいで!」

私を現実に引き戻したのは、女中頭のこの一声だった。
はっとしたところで、炊き屋が随分と焦げ臭くなっていることに気が付く。女中頭の射るような視線が痛かった。すみません、と一言謝って、桶を持って逃げるように炊き屋を出た。

潜入任務の真っ直中だというのに、私は何をやっているんだろう。

このところ、ぼうっとすることが多くなった。
そのきっかけは何だといえば、思い当たるのはやはり、数日前に遭った真庭鳳凰のことだ。よくはわからないが、あの男との邂逅が、私に不確定で模糊とした不安を抱かせているひとつの要因であることは確かだろう。
あの男の言葉を思い返してみるに、どうやら彼は私が幕府のしのびだと、既に知っていたようだった。(それもまた、幕府がどこまで知っているのかはわからないが)そう解釈するのが最も自然だった。
…いやさ、あのときの己の短絡さが、全く持って情けない。

「ああ、そうだ」

その場を去ろうとする私の後ろから、女中頭の声がした。私に向けられたものであることはすぐにわかったので、頭だけを振り向かせて彼女を見ると、彼女は思いの外厳しい顔をして私を見ていた。

「この前、隣町の大店の主人が亡くなったらしいよ」
「……」
「何でも、曲者の仕業じゃないかって。大丈夫だとは思うけれど、このところは物騒だから。あんたも気をつけなよ」

この人は、他でもない私が、その曲者だということを知らないのだろう。
ふと死に際のあの男の顔を思い出しながら、私は「はい」と短く返事した。





結果的に、私が真庭鳳凰と相まみえることとなったのは、あの日からたった数日しか経っていないとある日のことであった。
詰まるところ、私が竈を焦がしたその日である。

「それにしたところで、上手く化けたものだな」

私は、持っていた桶をほっぽり出して、後ろを振り返った。
その先には、真庭鳳凰がいた。木の幹にその身体を預け、腕を組んでいる。口には、恐らく茶団子のものと思われる串を咥えていた。
好きなのだろうか。いやどうだっていい。

「ただの奉公人と見紛うところだ。しのびらしくないと言えば、それまでかもしれんが」

背後を取られるまで気が付かなかったことに対する嫌味と受け取っていいのだろうか、わからないけれど。
我ながら図星だと思うところがある。その真の理由なぞはこの男にはわからなかろうが、私はきっと真庭鳳凰を睨み据えた。当の本人に、余裕を湛えたその表情を崩す様子はなかったけれど。

「以前も言ったが、危害を加えるつもりはない――どの」

確認するようにわざとらしく付け加えられたのは、紛うことなく私の名前だった。勿論、それにより私の真庭鳳凰に対する警戒が強まることを、この男は既に見越していただろう。

「…何で私の名前を知ってるんですか」
「勝手に調べさせて貰っただけだ。そう懸念することでもあるまい」

真庭鳳凰は事も無げにそう言った。
それがどうしたと言わんばかりの口振りに、私は言いたいことを全部呑み込んだ。この様子では、仮令私が何か言ったところで、成果が得られるわけでもなさそうだ。
私はひとつ息を吐き出して、気になっていたことを問い糾すことにした。

「それで、一体何の用事だっていうんです」
「そう急くな。誰か見られて不味い輩がいるわけでもあるまい」
「聞かれると不味い話だということは何となくわかりますよ。…まさか世間話というわけでもないでしょう」
「まあ、お前の言う通りだがな」

真庭鳳凰は、私の目を確と見つめて、こう言った。

「今回は、仕事の依頼に来た」
「依、頼…?」

私は思わず言葉を繰り返した。表情は怪訝そうなそれとなっただろう。世間話ほどではないにせよ、私の意表を突くには十分な話題だった。
一拍置いて、私の脳が冷たく言葉の意味を理解する。

「断らせてください」

そう言葉が出るのに、時間は掛からなかった。
しのび集団がどうしてしのびを雇おうと思うのかだとか、そういう疑問が湧き出る前での判断だった。詰まるところ、危機管理能力が有効に作用しただけに他ならない。
以前も思った通りだ。私は、真庭忍軍とはあまり関わり合いになりたくはない。
真庭鳳凰が、私がこの案を受け入れないことを知っていたのかどうかはわからない。けれど、私が返した言葉から一拍も置かずに、彼はまぁ、と口を開いた。

「真庭忍軍が幕府から請け負った任に、協力者を要請した形となる。幕命であることに相違はない」
「……そうなら、最初からそう言ってください」

どうしてそんな回りくどい言い方をするんだ。
幕命であるのなら、私に断れる余地はなかった。糊口をしのぐだけの関係とはいえ、今のご主人様は幕府である。誰それとは関わりたくないなどという私情が持ち込めるわけもない。
しかし、何故幕府はその『協力者』とやらに私を指名したのか…やはり正式な隠密のしのびではないから?もしものことがあっても替えの利く存在だと、そういったところだろうか。きっとそうだ、彼らは私の命など虫けらのそれほどにも思っていない。

「それで、私があなたの仕事に助太刀すれば良いと」
「実際に関わるのは、我ではなく真庭忍軍のしのびの誰かとなるだろうな」

…真庭忍軍を代表しての挨拶というところか。
この男がわざわざ此処まで足を運んだ理由をそう推測しながら、私は真庭鳳凰を見遣った。

「勝手な話だが、どのの力量を計らせてもらうのが、こうして我が訪ねた理由のひとつだったのだが…、こうして奉公人に成り済ましている姿を見る限り、いらぬ心配だったようだ」

繰り返された言葉に、このひとは嫌味を言っているのか、とも思ったが、そんなつもりはないようだ。
その顔に浮かんだ余裕は結局今回の会話に置いて崩れることはなく、同時にその表情によくわからない感覚を抱きながら、私は真庭鳳凰を睨み据えたままだった。

「任務中であろう。邪魔をしたな」

そう一方的に言い残して、ふと瞬きした瞬間には既に真庭鳳凰の姿はなかった。




私はしばらくその場から動かなかったが、やがてふとほっぽり出したままの水桶のことを思い出し、もう日が傾き始めていることに気が付いた。

まずい、またどやされる。
「遅い!」と怒号を上げる女中頭の姿を頭に浮かべながら、私は深く溜息をついた。





10.10.30