どこかで会ったことはなかろうか。

まず、そう思った。

男は鋭い目をしていた。まず特筆すべきはそこだろう。黒い長髪は僅かばかりの風にそよいでいて、全身に鎖を巻き付けたしのび装束。今まで出会ったしのびは数多いけれど、その装束は初めて見るそれだった。
私にしてみれば結滞以外の何物でもなかった、が、

まずいな、強いな。
それが、次の印象だった。
空気だけでそれを感じさせるほどに、練達した気配だった。まず、一対一の戦いでは手も足も出ないであろうことは明瞭なほどに。

――まぁ、
どうこう考えたところで、結局は後の祭りだ。
肩胛骨のあたりでがっちりと腕を固定された感覚を知りながら、私はひとり溜息を吐いた。

「…随分と、疲労が溜まっているようだな」

まさか返事があるとは思わなかったので、少しだけ驚いた。が、口から発せられた声にその揺らぎが現れることはない。

「いえ、まぁ、いきなりこういう状況に陥ったら、誰でもね」

任務を終わらせて、屋敷の瓦屋根に出たところで、私はこの男と鉢合わせした。全くの運の悪い偶然であったと言っていい。私は咄嗟に構えを取ったけれど、その間に男は動いていた。刃を交えようと思った私と、捕らえることを第一に考えた男の、一瞬の差である。そこに力量も相まって、私は背後を取られた上に腕を封じられ、今の状況に至る。
こうなってしまえば、私の唯一持ち得る忍法もつかえない。数ある捕縛方法の中で、ここまで直接的に動きを封じる策を取ってくるとは…、実際のところは単なる偶然なのだろうが、皮肉に感じざるを得ない。

――それで、
私は、後ろ目に背後に立つ男の様子を窺った。
一体、この男は何がしたいのだろうか、と。
男は何らかの考え事をしているようだった。無言のまま、こちらにこれ以上の危害を加えるでもなく、その鋭い目はただ少し俯きがちに、どこかを見つめている。

「…、痛いんですけど?」

そんな釈然としない男の行動に、辟易したこともある。
私はわざと少しだけ語尾をあげて、相手方の様子を窺うことにした。
どこのしのびの者か、目的の根本までは見通せなかろうが、これで少しでも意図が見えれば万々歳だ。
男は、まるで私の存在を今の今まで忘れていたと言わんばかりに、「ん?」と受け答えして、続けた。

「そうか、それはすまないことをしたな」

男がとった行動は、その私の意図をあっさりと覆すものだった。
両腕と肩の開放感。するりと重力のまま落ちた私の腕は、いかに私がこの状況を想定していなかったかの表れだった。
急ぎ振り向けば、そこにはどうやら一歩も動いていないらしい男の姿があった。結果的に飛び退いたのは私の方だ。脇差しを逆手に構え、いつでも振るえるようにする。一体、なんだというのだ。

「そう警戒するな。もうお前に危害を加えるつもりはない」

それでも私が構えを解かないのを見て取って(当たり前だ、そう言われて信じる輩がいるものか)、男はやれやれといった風に肩を竦めた。しかし、男が次に告げた言葉で、私の構えは僅かながらに緩むことになる。

「我は真庭鳳凰という」
「――真庭、忍軍」

思わず、その名前を反芻する。
男の言うことが本当だとすれば、真庭忍軍のしのびと会うのは初めてのことだった。
真庭忍軍、頭の中でもう一度反芻して、私は記憶を探る。よく名の通ったしのび集団である。
真庭鳳凰というその名も、聞いた名だった。同時にそれもまた、幕府にとって大きな意味を持つ名でもある。
私がその先何も言おうとしないのを知ってか、男は続けた。

「同じ幕府内のしのびが、争う理由もないだろう」
「……」
「こちらも雇われた身だが…ことこの場においては、然したる問題でもなかろうよ」

まぁ、言うとおりでは、あるのだが。
ぱっと見ても、こちらとあちらの力の差は歴然だった。向こうから刃を収める提案をしてくれるのなら、これ以上ありがたいことはないのだが、如何せん信用することができない。
剣呑とした空気を感じ取ったのか、男はそこで、『偶然通りかかっただけだと言っても、信じてはくれぬだろうな』と言って、少しだけ口元を緩めた。

「まぁ、ここで我が退けば、それで済む話だ」

その点に関しては疑うべくもなく全く持ってその通りである。
、男は闇の中へ消えていった。




「――…」

私は、今まで張っていた緊張の糸が、ふやりと弛むのを感じていた。何故か、それでも確かに私は緊張していたのだ。幕命の任務の帰路だったから?それとも、真庭忍軍と相まみえるのがこれが初めてだったからだろうか。いや、それらを抜きしたところで、ああも身体が強張ることはないだろう。

よくはわからない。ただ少なくとも、あの男は私が最も不得手とする空気を持っている。
それだけは確かだった。
…もしかすると、暗殺専門で動く真庭忍軍のしのびとは、皆ああいう風なのかもしれない。
出来ればもう関わり合いになりたくない相手だと思った。私のようなしのびとでは、生きている世界が違いすぎる。

――けれど…、
胸によくわからない蟠りを残しながら、それでも幕命は全うせねばなるまいと、私は地面を蹴った。



10.10.26