お前はしのびには向かない。
むかし、とあるひとが私にそう言った。
顔は覚えていない。姿も鮮明には思い出せない。私の記憶の中にあるそのひとは、ただ、かけがえのないくらいに大切だったことは覚えている。
しのびになることは、やめておけ。
今となっては明瞭としないその姿は、確かに私にそう言った。
でも、私は首を縦には振らなかった。
白状してしまえば、その理由などは覚えていない。何か譲れない理由があったような気もするし、案外ただの意地だったのかもしれない。
けれど、私はその言葉を肯定することは終ぞなかった。
その、大切なひとが死んでしまう姿を見た、あの瞬間まで。
*
真っ赤に染まった畳の上に、私は暫く突っ立ったままでいた。
視線もまたその赤い畳に落ちていて、視界の端には生命活動の停止したそれが転がっているのも充分に理解できた。この人が抵抗をしたので、この場は随分と惨状と化してしまった。
「……」
私は、ぼうっと定まらない視線のまま、物音ひとつしない静寂を感じていた。
夜は深い。屋敷の人々がこの事態に気付くのは、まだしばし後のことになるだろう。それまでに立ち去ればいい。
「…ん…」
鉄臭い匂いが充満する中で、私は小さく伸びをした。
私は脇差しの血振りを済ませ、刀身をくるりと元収まっていた懐紙に包む。
これ以上、誰かを傷つけたり殺したりする必要はないと思ったからだ。
確かこの男のひとには、奥方と子がひとりいたはずだった。本来なら、同時この夜に殺されるであろう家族のひとたちだ。
けれど、別にいい。
我ながら、職務怠慢も甚だしいとは思うけれど。
「…行きますか」
ひとりぼっちの室内で、私は小さく呟いた。
この声を聞いてくれる人がいないことは、充分に承知済みだった。
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10.10.26