「――ん」
一筋の光すら差し来まい、そんな空間のなかで、宇練銀閣は薄く目を開いた。
宇練はもともと寝付きの悪い質だが、それでも今回は一層睡眠をとることができなかった気がする。なんとなく、ずっと現実に身を置いていたような気怠さが残っていた。
その理由がなんなのはわからなかった。
しかし、やはりどこかで勘付いていたのかもしれない。
――夢を見ていたわけでは、ないのだが。
「…くあ」
宇練は大きく欠伸をした。
――ぼうっと、そのとき頭に浮かんでいたのは、ひとりの女の姿だった。
*
表町からほどなくしたところにある、寂れた荒野である。
そこに宇練銀閣はいた。
この頃の彼はまだ斬刀を所有してはいない――無頼の浪人であった頃の話である。
丁度人を斬ってきたばかりで、その姿は僅かならず血で汚れている。こんな姿で表町を堂々と闊歩するわけにもいくまいと(まぁ実のところどうでもいいのだが)、遠回りして自宅へ帰ろうとしていたところだった。
面倒だな、などと考えつつ、ふと足下を見ていた目を正面へ向けたところで――
それはいた。
旅人のような出で立ちをしていた。事実旅人だったのだろう。それは生い茂る草葉に混じった姿は、何か探し物をしているようにも見えた。ごそごそと、地面に両手をついて、たしかに何かを探し回っている。
宇練は、その旅人を見て僅かに目を細めた。
自分の腰に差した得物が、しゃりんと音を立てたような気がした。
腰に差した刀は斬刀ではなかったが、それでも宇練の居合いの腕が常人ならぬ域に達していたのは事実だ。一介の旅人では、かわすことなどできるまい。
しかし、音を立てた気がした、というだけである。実際には音を立てていない。なので、旅人の胴体はまだひとつのままだった。
――さて、どうするかね。
そして気怠げに、宇練は考えた。
――このまま斬ってしまってもいいだろうが、
このまま旅人の真横を通って、真っ直ぐ家へ帰るという選択肢もある。普通の人間なら、迷う余地なくこちらを選択するだろう。けれど宇練は普通ではなかったので、どちらかというと前者の選択に気持ちが傾いていた。
そのとき。
「ん?わ、わわっ!」
旅人が、振り向いた。
「…よお」
気付かれたようなので、とりあえずそう応えておいた。
宇練としては特段隠れていたつもりでもないので、気付かれようが気付かれまいが関係なかったのだが。丁度宇練はそのとき、そろそろ斬ろうか、などと考え、構えようとしていた。
しかし、振り向いた旅人を見て一瞬面食らってしまったがために、その機は完全に逃してしまった。
「あんた…女か」
顔を見なければわからなかっただろう。旅人の衣装は男のそれそのものだったし、髪の短いその女は、後ろから見ればただの小柄な男にしか見えなかった。
この時間に女がひとりでこんなところにいるとは――珍しいな、と素直にそう思う。
「あ…は、はい」
「女がひとりで旅してんのか」
「えぇ、一人旅です」
「ふぅん」
その割には、随分と堂々しているように見える。
変な奴だな、とそう思った。宇練にしてみれば、ここまで他人に興味を持ったのも久し振りだったような気がしていた。
といっても、やはり普通の人間からしてみれば、些細すぎるそれだったのだろうけど。
「えーと、剣士の方、ですか?」
宇練の姿をまじまじと眺めて、旅人はそう言った。目は腰に差した刀に向いている。
今の自分の衣には少なからずの血が付着している。そしてこの場合、それは彼自身が怪我をして付着した血でないことは明らかなので、現在の状況も踏まえ普通ならばここで取り乱すなりなんなりの反応があっていいものだが、旅人はそこに関して何ら反応を示さなかった。その程度には、やはり彼女も普通ではなかったのかもしれない。
「そんな大層なもんじゃねぇよ。ただの浪人だ」
「へぇ、そうなんですか」
「それに、今からあんたを斬ろうと思ってたところだ。あんたの考えてるところの剣士じゃあ、こんなことはしないんじゃねぇのか?」
「え…斬られるのはちょっと嫌なものがあるんですけど…」
別に脅そうと思っていたわけではないが、それでも事実を述べればそれだけの効果があるであろうことは宇練もわかっていた。
けれど旅人は、引きつり笑いのような苦笑のようなそれを浮かべただけで、それらしい反応は終ぞ見せなかった。
これに、宇練は少なからず驚かされた。
旅人の目を探るようにしてみても、怯えた様子は微塵も感じられない。
――だから、ということもあったのかもしれない。
「…でも、やっぱやめだ」
宇練は言って、刀から手を離した。
黒目の大きなその旅人の目を胡乱そうに見たままで。
「見逃してくれるんですか?」
「見逃す…なんてそんな恩着せがましいことでもねぇや。俺が勝手にあんたを斬ろうと思って、勝手にやめただけなんだからよ」
気まぐれだよ、気まぐれ。
気怠げに頭をかきながら、宇練はそう言った。
旅人は一瞬だけ、きょとんとした目でこちらを見つめていたが、その後笑いを漏らして、そうですか、と言った。
細められた瞳は、黒くきらきらしていたように見えた。
「あんたの名前は?」
気まぐれついでに、訊いてみた。
女の身での一人旅、と言っていた。そんなことをしているということは、何か事情があるのかもしれないと、返事はかえってこないかとも思ったが、予想に反して応えはすぐに返ってきた。
「と申します」
嫌がる風もなく、女はそう言った。
「…覚えとく」
宇練は一言、そう返した。
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