旅人と別れたあと、宇練は荒れ地を歩きながらぼうっと、考えていた。
どうにもあの女に毒気を抜かれてしまったらしい――それは、宇練銀閣にしてみればとても奇妙な感覚だった。今まで一度として、斬ろうと思った相手を斬らなかったことはないのだから。
旅人が一体何を探していたのか、などということは、訊かなかった。尋ねる必要もないと思ったし、何より面倒だった。旅人は適当にその探し物を見つけて、適当に宿屋へ帰るだろう。
自分をここまで奇妙な感覚に陥らせたあの旅人とは、二度と会うことはあるまい。
多分、それが一番いい。
宇練は、明瞭としないままそんなことを考えていた。
その考えは、やはり彼にしてみれば非常に奇妙な形で、裏切られることになったのだけれど。
*
「……一晩、泊めていただけませんか…」
この上はないくらい申し訳なさそうに、肩をこれ以上はなくらい窄めて、旅人は戸口に立っていた。
こんな遅い時間帯に、こんな郊外のこんな小屋の戸(納屋と言ってしまっても差し支えはない)を叩く者がいるから、いつか斬った輩どもの残党かとも思ったが、違った。
実際、戸を叩く音と共にそのか細い声がしなければ、小屋の戸ごとその向こうにいる者を斬ってしまったに違いない。その点などを鑑みれば、どうやら旅人は運のある人間のようだった。
「この辺りの旅籠はもう粗方閉まっていて…野宿をしようにも、ここら一帯は野犬が出ると聞き…申し訳ないとは思いつつも、先刻あなたが歩いていった方向へ行ってみればここが見えたもので…」
尋ねてもないのに事情を説明しはじめた旅人を、宇練は黙って見るほかなかった。
自分が女であるということも忘れて、独り身の男の塒を訪ねるということも、不用心に過ぎると思いこそすれ、宇練にそのような下心はない。
というか、野犬が怖くて、辻斬りは大丈夫なのか。
そう思わないでもなかった。
「…木の上ででも寝りゃあいいだろう」
「お恥ずかしながら、登れず…」
「……旅籠が駄目でも、気の良い輩くらい、」
「すべて門前払いをうけました…」
この辺りの治安は確かによくない。(その点に関しては宇練も一役買っている)そして、旅人を装った強盗なども最近は少なくないと聞くから、門前払いも仕方のないことかもしれないが…
「一晩だけで構いません!いえ、日が出るまでの数時間でも!お願いします!」
「……」
必死で頼み込む彼女を見て、宇練は返事をしなかった。
いや、できなかった。
ただ、そんな彼女を見て、毒気を抜かれたような気分になった。最初に会ったときのように。
二度目はないと、思っていたのに。
「…仕方ねぇな」
宇練は、ただそう答えた。
女ひとりで旅をする姿を気に入ったのか、辻斬りを臆せず訪ねる度胸を気に入ったのか、理由なぞつけはじめればいくらでもある。しかしそんなことはどうだっていい。
もしかすると、宇練はこのとき既に、女に惚れていたのかもしれなかった。
*
それから、女はその小屋で生活するようになった。
旅人である身上ゆえ、と、度々出ていくと、女は宇練に申し出たこともあったのだが、それは全てそれとなく宇練自身が引き留めていたような気がする。柄にもなかったとは思う。少なくとも自分らしくはなかったと思う。
理由までは思い出せない。あるいはわからない。
そして、女はどうなったか。
宇練は座敷のうえ、ひとりで記憶をさぐる。
――斬ったような、気がする。
鮮明な記憶がない。これは思い違いで、彼女はまだどこかで生きているのかもしれない。ただこの因幡にいないだけで。けれどそんなはずはないという思いも、確かに宇練の中にはあるのだ。
事実はわからない。あるいは思い出したくない。
宇練はもうひとつ、大きな欠伸をした。
自分が鮮明に憶えているのは、女と出会ったあのときのことだけだ。それからのことは、まるでもやがかかったように明瞭としない。
彼女とどんな会話をしたか。彼女がどんなときに、どのように笑ったか。
もやがかかったように、思い出せない。
宇練は重力のままに、その瞼を再び閉じた。
しかし、思い出せないそれは、彼にとってあたたかい記憶であることに違いはなかった。
閉じてしまう
10.02.04