考えてみれば、私と彼との接点なんて、ほとんどないに等しいものだった。
私は真庭虫組に属していて、彼はその真庭虫組の頭領のひとり。
同じ虫組でも、私の上司に当たる人は蝶々さまであって、話をする機会なんて、なかった。精々、すれ違ったときに挨拶するくらいだった。
*
あるとき、蝶々さまが言った。
「お前、そろそろ何か気付かないのか?」
その言葉の意味がわからなくて、私はその真意を尋ねるような発言をしたのを、覚えている。
「気付いてねぇのか、その調子じゃ。鈍感なのか?…あいつも、また難儀な…」
蝶々さまは半ば呆れたように、言った。
いよいよ本当にわからなくなって、何故そのようなことを、何故私に言うのか、蝶々さまに問うた。
「ま、いずれわかるさ。いずれな」
首を傾げることしかできない私に、意味深な発言を残したまま、蝶々さまはその場を去っていった。
*
そのとき、私はふらふらと、何処へ行くともなく歩いていた。ようは散歩ってやつだ。
最近、こうすることが多くなった。仕事がなく、することもない。暇なのだ。
けれど、私の周りのひとたちは、そこまで暇ではないらしい。いつもと変わらないくらいには、任務も入って、せこせこと忙しそうにしている。
どうして私に、任務があまりまわってこないのか。あるとき疑問に思った私は、蝶々さまに尋ねたことがあった。
「あー…そりゃ、ほら…よ。あるじゃねぇか、色々…」
何かをはぐらかすような、曖昧な答え。益々私は、意味がわからなくなる。
結局曖昧のままに話は終わり、また私は取り残された。
まぁ、そんなこんなで、今、私は暇だった。
通りすがった人たちに、適当に挨拶を交わし、またふらふらと歩き出す。
そんなことが幾度か続いたその後、よくよく聞き慣れた声が、耳をくすぐった。蝶々さまの声だった。
「――いつまで… …つもり、…」
此処からでは、話ている内容までは聞き取れない。
蝶々さまが誰と話をしているのか、またその内容は何なのか、少なかれ興味が湧いた私は、声のする方へと、導かれるように歩き出した。
上手く物陰を使って、覚られないように、声が届く範囲にまで近寄る。これでも、気配の消し方は真庭の里…いや、どこのしのびにも劣る事はないという自負はある。回りくどい言い方をしたが、要するに気配を消すことが得意なのだ。
(…蝶々さまと…――蜜蜂、さま?)
見えたのは、背の低い男の人と、背の高い男の人。
真庭の里の中でも、あれほどの長身となれば、かなり人数は限られてくる。そして、少しだけ聞き覚えのあるその声は、確かに蜜蜂さまのものだった。
(何の話をしているんだろう)
話の内容は断片的にしか掴めないけれど、それでもそれを聞いているうちでは、蝶々さまが蜜蜂さまに、何かいちゃもんをつけているように聞こえる。現に蜜蜂さまの方はたじたじというか、何を次にどう返せばいいか、わからないようだった。
「いや、そりゃ…僕だって、努力してないことはないんですよ!」
「誰が今まで話を聞いてたと思ってんだ?そんなことは知ってる。お前はお前なりに努力して来た方だ。だから、そろそろ――」
「そ、それ以上は言わないでください!わかってます、わかってますよ!」
…本当に、一体何の話をしているのだろう。
――蜜蜂さまが、蝶々さまに借金してる、とか?
残念だけど、これだけじゃ、そうとしか判断の仕様がない。
「立ち聞きは感心できんと、思うが」
「!!」
慌てて振り向いた先には、腕を組んだ蟷螂さまが私を見ていた。
「す、すすみません、そんなつもりは…」
「そんなつもりがあったから、こうして聞き入っていたのだろう。わたしが此処まで近づいても、気付かぬほどに、な?」
「う…」
駄目だ、負けた。
上手い返答が見つからず、がくっと肩を落とした私を見て、蟷螂さまはため息をついた。
「すみません…」
「わかったのならいいが。……まぁ、話の内容が、内容だけに、」
「…へっ?」
「…。あぁ、そうだ。ぬしを捜していたところだった」
酷くはぐらかされた感じがあるが、言及を許す事もなく、蟷螂さまは続けた。
「これから、何か用事は入っているか?」
「特にこれと言って…入っては、いないですけど」
「そうであろうな」
「…何なんですか、さっきから?」
「ぬしの気に留めるようなことではない」
付いて来い、と最後に付け足して、蟷螂さまは、すたすたと背を向けて歩き出した。
*
「………。…、」
頭痛が痛い。
頭痛が痛いのは当たり前だろう、何を頭の悪いことを。なんて、自分でも思うけれど。
私は、目の前の机にある広げた巻物を見て、盛大にため息をついた。
まだ沢山ある。どうしよう、明日が見えない。
こんなことになるんなら、例え嘘でも、用事をでっち上げておけばよかったと、今更後悔する。それでも、後悔したところで現実問題。私は、書類に筆を走らせた。
それから、どれだけの時間が経っただろう。
それなりの時間が経ったことは事実だ。高かった日も、既に落ち始めている。
――夕焼けが綺麗だ。明日は晴れだなぁ。
なんて、まともに働きもしない頭でそう考える。
これから、この沢山の書類を、蝶々さまのところまで届けなくてはいけないのだ。
誰だ、こんなになるまで、書類を放置してた奴!…八割がた、蝶々さまだ。
私は書類を抱え、渡り廊下へと向かうために立ち上がった。
*
「うお、っと…」
既に、何度か書類を落としそうになりながら、私はまっすぐ伸びる廊下を歩いていた。これを、蝶々さまの元まで運ばなければならないのだ。蝶々さまの自室まで運ぶとしても、かなりの距離はある。
巻物って嵩張るんだよ、誰だよ必要書類を巻物なんかにしやがった奴。
悪態を付きつつ、よろける。
嵩張る上に、何気に重たいのだ、巻物ってのは。
唸りつつも、こんなことで一々休んではいられないので、私はよろける足で歩を進めた。
「――ん?」
渡り廊下の途中に見えた影に、私は足を止めた。
逆光で、顔がよく見えない。この長身の人は、誰だろう?と、目を細めた。
「…!」
向こうも私の存在に気付いたようで、慌ててこちらを向いた。
――蜜蜂さまだった。
「どうかしたんですか?…考えごと、ですか」
蜜蜂さまともあろう方が、此処まで近寄って、尚私の存在に気付かないというのだ。それ相応の理由があるのだろう。
「あぁ、…はい、考えごとです」
蜜蜂さまは、少し曖昧な笑みを私に向けた。
「重そうですね。…僕でよければ、手伝いますよ」
「え、いや、そんな」
「遠慮しないでください」
そう言って、蜜蜂さまは、私の腕の中にあった巻物を、全て攫っていった。手伝ってくれているというより、これじゃあ押し付けているようにしか見えない。酷く申し訳ない気持ちに駆られつも、そろりと蜜蜂さまの表情を伺う。
「あの、考えごとってもしかして、さっき蝶々さまとお話していたことですか?」
「!!」
蜜蜂さまは、あんぐりと口を開けて、ゆっくりと私を向いた。
「ま、まさか…聞いて…?」
「あ、え…いや、立ち聞きするつもりはなかったんですけど…。もしかして、聞いちゃいけなかった…?」
「ぜ、全部…ですか…?」
「い、いえ!蝶々さまとお話していらっしゃるなー、なんて思っただけでして。話の内容までは…」
「良かった…」
何故だかほう、と胸を撫で下ろした蜜蜂さま。私は何だかわからずに(考えてみればわからないことだらけだ)、首を傾げることしかできない。
尋ねてみようか、とも一瞬だけ考えたけれど、そこまで追求するのも野暮だと思い、口には出さないでおいた。
――あぁ、今日は本当に夕焼けが綺麗だ。
本日二度目となったが、そう私は思った。
こういう日は、絶好の任務日和なのに。
いや、別に私たちの任務に向き不向きの日があるとは思えないけれど。あるとしても、精々遂行しやすいか、しにくいかの多少の違いだけなのだけれど。
蜜蜂さまを見遣っても、蜜蜂さまが口を開く気配はない。
「最近は、めっきり仕事、入ってこなくなっちゃったんですよね、私」
「…そ、そうなんですか?」
「はい。やっぱり…仕事の内容が内容ですから、こういう机に向かう仕事ばっかりだと、腕が鈍っちゃうんですよね」
仕事、したいなぁ。
ぱきん、と右手で左手の指の関節を鳴らした。
結局は、私も真庭忍軍の一員、なのだ。
気がつくと、蜜蜂さまはぴたりと歩を止めていた。
「?どうしたんです、蜜蜂さま?」
「え…あ、いや、なんでも」
けれど蜜蜂さまは再び歩き出そうとはしなかった。一呼吸置いて、私を見た。
「きっと、貴方のことを心配しているひとが、いるんですよ」
そのときの、蜜蜂さまの優しげな表情に、少しだけどきりとした。
「そんなひと、いますかね?」
「いますよ」
きっぱりと、蜜蜂さまは言った。
妙に確信に満ちたような、そんな言葉だった。
そう言うと、蜜蜂さまは歩き出す。
その後ろをついていって、私は、考えてみた。
私のことを、心配してくれてる、ひと。
蝶々さま?蟷螂さま?
…いや、どちらも私のことを心配してくれてるだなんて、そんな感じじゃない。蝶々さまは、この間…といっても随分と前だけれど、私が剣客と闘りあって怪我して帰ってきたとき、『痛そうだな』とだけ言って鴛鴦さまに会いにいったんだもの。蟷螂さまだって、私に気を配ってくれてるのなら、まさかこんな大量の書類、押し付けたりなんかしないだろう。
と、すると。
私は蜜蜂さまの後姿を見た。
――もしかして、
そう考えるのは安直というか、短絡的というか、そんな気はしたけれど、考えてみれば私の周りにいるひとたちは全員、蜜蜂さまの言うように私を心配してくれているようには思えない。
「もしかして、蜜蜂さま、だったりして」
この言葉だけで、真意が伝わったとは思えない。
けれど、蜜蜂さまは持っていた(正確には持ってくれていた)巻物を、全て廊下に落とした。
「う、わ!」
ごろんごろんと転がっていく巻物を滑り込みで捕まえ、私は蜜蜂さまを見上げた。
蜜蜂さまは半ば放心しているような、そんな風にも伺える。
これは。
――果たして、肯定と受け取ってもいいのだろうか?
すると蜜蜂さまは、不意に長く息を吐き出し、こちらを向いた。
「僕だって男です、こうなったら潔く…」
その声には多少の諦めというか、そんなものも混じっていたかもしれない。
「さん」
「は、はい」
蜜蜂さまは膝を折って、床に膝をついている私に目線を合わせた。
そこで蜜蜂さまは、今度は短く息を吐き、続けた。
「僕は――貴方が、好きです」
夕焼けの先
日が橙に辺りを照らし出している。
その景色の中の、枯れかけた木に、二人のしのびが腰掛けていた。
「…言ったな、蜜蜂の奴」
「そのようだな」
「長かったよな、ここまで」
「そうだな」
「いい返事が貰えてると、いいんだが」
「――案ずることも、なかろうよ」
ひとりのしのびが、少しだけ、笑んだ。
08.03.20 (…な、長かった…!)