「果てしない均衡の向こうにあったのは、ただの闇だったわ」
彼女はそう言って、既に小指の長さほどもない煙草を口へと運んだ。詩的に言ってもやっぱり駄目ね。そうして意味有り気に短く笑う。
夜の冷たい外気に、触れる煙。白い煙と、彼女の纏う白い衣服は、妙なほどに同調して見えた。
口から、吐息のそれとは違う煙をもう一度吐き出した彼女に、煙草はもう止めた方がいいと言おうとしたけれど、それよりも早く彼女が口を開いて、俺の声は遮られてしまう。
「皮肉ね」
本当に皮肉るようにそう言った彼女を見て、俺はやっぱり口を開くことをやめた。
――きっと、彼女は俺が止めたところで、煙草を吸うことをやめはしないだろう。
「…あと一ヶ月」
ぽつりと呟いた言葉は、空虚なそれだった。
「まぁ、それでも持ったほうだよね。身体も内臓もあっちこっちぼろぼろで、見るも無残なくらい。それでも私、この二ヶ月は頑張ったんだよ」
発覚したとき、病は既に末期。そう聞いていた。
聞いていたはずなのに、どうして俺が今まで彼女に会おうとしなかったのか、どうして今更になって会おうと思ったのか、考えてみたけれどわからなかった。
「あんた、何か企んでるんでしょ。わかるよ、何をしようとしてるか。伊達に長い付き合いじゃない」
「……」
「やめときなよ、死んじゃうかもよ」
「…あぁ、そうかもな」
二ヶ月振りに会った彼女に、俺が初めて返した言葉は、それだった。
彼女は暫く俺の目をじっと見つめていたけれども、途中でふっと視線を外す。
言っても無駄ね。
そう言った彼女に、俺は
あぁ。
とだけ返した。
「憎しみによる本能と、守りたいもののための理性って、何が違うか知ってんの」
彼女は、答えを言わなかった。
ただ煙草についた最後の灰を病院の庭に落とすと、その吸殻と一緒に足で捩じる。
やがてその動きが、ぴたり、と止まった。
そして彼女は呟く。独白のように、呟く。
「…私が、どうして煙草を吸うようになったか、教えてあげようか」
その声は震えていて、
その目には涙を湛えていて、
たったそれだけのことだというのに、たったそれだけのことで、俺には彼女がとても弱く見えてしまった。
「貴方より先に、死にたいからよ」
その言葉が最後まで紡がれない内に、彼女は立ち上がって、そして病院へ向かって歩き出した。
「…ねぇ、衛士、」
言葉は途中で掠れて、聞き取れなかった。
同時に、と呼んだ俺の声も、彼女にはきっと届かなかっただろう。
最期の独白は闇に呑まれ
彼女は白い部屋の、白いベッドの上にいた。
「…意味、なかったじゃん」
彼女には、最早立ち上がって煙草を吸う力は残っていない。
空を飛ぶ鳶を、窓からしか見ることができない。
不意に、彼女のその手が、右脇にあった小さな棚の上、すっかり空になってしまった煙草の箱を掴む。
弱々しく。
けれど。
「…ねぇ、衛士、…、私、まだ生きてるよ」
馬鹿野郎、そう呟いた言葉は、既に声にすらなっていなかった。