――何だか、なぁ。
洞窟と呼ぶにはあまりに小さく、かといって木にできたうろのようなものかといえば、そこまで狭い場所でもない。大きな石の壁が風化してできたような場所だと野兎は言っていて、広くもなく狭くもなく恐らく二人程度身を隠すのならこれ以上は望まないほどに適した場所だとは思うのだが、
けれど、今の川獺にとっては、そこはただ居心地の悪い場所でしかなかった。
…いや、居心地が悪い、では、やや正確さに欠ける物言いなのかもしれない。もっと好転的に考えるなら、その形容とは逆の状況でもあるのだ。
…しかしそれでも、川獺は今すぐここから、この状態から脱出したいと考えてしまう。
それがどうしようもない考えであることは自身がよくわかっていたので、川獺は短く息を吐き出して、己の膝の上にある野兎の頭を見下ろした。
かすかに聞こえる寝息。
彼女を責めるというわけにもいくまい。何せ、この状況を作った一因は、確かに川獺にあったのだから。
*
「大丈夫か、ちゃん」
川獺のその言葉で、驚いたように肩を跳ねさせた野兎は、ぼうっと虚空を見つめていた目を強くこすりながら「大丈夫ですっ!」と勢い良く返事した。同時に背筋もぴんと伸びる。
野兎が明らかに疲労を湛えた目をしていたのは、任務の途中でのことだった。
より正確には、任務というよりも任務の下調べと表現した方が良いだろう。任務を円滑に進めるための、下準備だった。その任務先がまた、行きだけで一日半かかるという相当の遠出だったのだ。
川獺の忍法と野兎の立場上、二人が同じ任務に就くということは滅多にない。今回のような場合の任務もそうあるわけではないので、川獺は素直にこの機会を喜んだ、
の、だが。
「いや、嘘だろ。目が死んでる」
虚勢を張っているような野兎の様子を見て、川獺はそう声を掛けた。
里を出た当初こそ、気丈に振る舞っていた野兎だったが、こうしてかなりの距離を移動してきた今、彼女の疲労もかなりのところまで達しているのは確からしかった。
「いやあ大丈夫ですって。見ての通り元気ですから」
どう見ても空元気だった。
嫌な予感を抱きつつ、川獺は尋ねる。
「なぁちゃん、最後に寝たのっていつ?」
「…き、きのう」
「嘘はつくなよ?」
「………」
「………」
「…………五日前です」
沈黙に耐えきれなくなった野兎が吐き出した言葉を受けて、やっぱり、と川獺は大きく項垂れた。
丁度五日前、川獺は野兎と言葉を交わす機会があった際に野兎は「このところ激務続きで」とぼやいていたのだ。野兎はそれからずっと寝ていないということになる。というか、五日前のあの言い回しだと、それ以前もまともな睡眠時間が取れていなかったのだろうとも容易に察せようものだった。
こうした会話をしている今は丁度いいことに、二人は小休止を取っていた。ここまで、相当長い距離を移動して来ている。野兎が見つけてきた石が風化した穴蔵に、二人身を預けているところだったので、川獺は野兎に一言、「少し寝てろ」と告げた。
「…いやっ、でも」
「任務で下手打ったらちゃんのせいだってのはわかってるよな」
野兎が反論をする前に先手を切れば、案の定、野兎は言葉を失い、うぅ、とも、ぐぅ、ともつかないようなうめき声を漏らすだけだった。
その様子がおかしくて、川獺は思わず忍び笑いを漏らす。
「今日で大分進んだし、明日の朝発っても十分間に合うだろ。ほら、寝た寝た」
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
「ん。おやすみ」
割と素直に従ったところを見ると、やはり野兎自身も限界を感じていたのだろう。
それから野兎が寝付くまでは早かった。
最後の会話を終えてから、数秒待たずして、小さな寝息が聞こえてくる。
相当来てたんだな、と川獺は思いつつ、この局面まで気づけなかった自分をすこし情けなく思いつつ。腕を頭の後ろで組んで、日が出るまで、寝はせずとも体を休める体勢へと移行したときだった。
ずるり、と滑ってきた野兎の頭が、丁度組んだ腕のところに当たり、川獺は動けなくなってしまった。
――…いや、どんだけ熟睡してんだよ、ちゃん。
しのびたるもの、例えば敵襲があったとき、いつどのようなときどのような状態でも、素早く対応しなくてはならない。けれど、野兎のこの眠りようでは、しかしどうあっても対応できないだろう。それくらい、野兎は深い眠りへと入ってしまっていた。
少し起こそうか、と川獺はそう思い、組んでいた腕をほどこうとした。
…そこまでしてから、ふと思い直す。既に限界だったろうとは推測するが、野兎は今の今まで、確かに緊張の糸を張っていた。彼女を慮ってのこととはいえ、その糸を切ってしまったのは他でもない、川獺自身である。
そうして川獺は、起こそうとしてほどいた腕を再び組んだが――一瞬でも力を緩めてしまったのがいけなかった。野兎の頭は、ゆるゆると川獺の腕を伝っていき、重力の従うままに落下した。
かと言って頭は打ち付けなかった。落ちた先には、川獺の膝があったから。
*
膝の上の野兎は、依然起きる気配を見せない。
そんな彼女を見ながら、川獺は思案とも葛藤とも似つかない複雑な考えを頭の中で巡らせていた。
…いくらなんでも、安心しすぎなのではないかと思う。
安心というか、油断のしすぎだ。
もし当人が起きている目の前でこのようなことを言えば、返ってくる答えは『身内だから』という程度の、まるで緊張感のないものなのだろう。そのくらいはこの野兎のこと、容易に想像がつく。
けれどこの状況、彼女はその『身内』が、彼女自身に対してどのような想いを抱いているかということを、たとい少しであっても知るべきだ、と思う。
そんなことをぐるぐると頭の中で考えながら、膝の上に移行することで重みのなくなった腕を今度こそほどくと、川獺は野兎の黒い髪をさらりと掬った。
多少痛んではいたものの、手のひらからこぼれ落ちるそれは思っていたよりも柔らかくて、ああそういえば俺ちゃんの頭を撫でたことは何度もあるけどこうやって髪に触れるのは初めてだなあなんてそんなことを考えながら、髪に触れていた指は頬へと移動した。
それでも彼女の穏やかな寝顔が何ら変化を見せるわけではない。頬を少し強く押してみたけれど、やはり起きる気配はなかった。
ふと、彼女の口元に目がいった。
半分開いた唇の色が、不思議と鮮やかに映った。
…柔らかそうだな、
なんて考えて、指がその形をなぞったところで、川獺はふと我に返る。
――何やってんだ、おれは。
けれど、我に返ろうが返るまいが、一度意識してしまったものは仕方ないのかもしれなかった。気付けばまた、彼女の唇に視線が降りてしまっていて、川獺は二度頭を振ってから、決して高くはない石の天井を見上げた。
あーあ、とわざとらしく息を吐き出して、膝の上に感じる彼女の頭の重みがどこか心地よいとは思いつつも、それとは裏腹に大きく漏らしたこの声に気付いていっそ彼女が目を覚ましてくれればいい、なんて矛盾めいたことを考えていた。
「……襲われても文句は言えないよな、こりゃ」
明けない夜を望む
10.08.19 Amarenth