「あぁ、いいですね、いいですね――貴女と一緒の旅だなんて、いいですね――」
「旅じゃありません、任務です。勝手に頭の中で変換しないでくれませんか喰鮫さん。突き落としますよ」
そう言葉の暴力を振るわれた彼だったが、特段気にした様子もない。寧ろ嬉しそうに、くつくつと喉の奥で笑っていた。そんな彼に、野兎は思わず身震いする――こんな遣り取りが以前にもあったと思うのは、きっと気のせいじゃないはずだ。
横目でちらりと、隣で同じように草葉の中を駆っている喰鮫を見て、野兎は短く息を吐き出した。
本当は今すぐ踵を返して里に帰って部屋で茶でも飲んでぬくぬくしたいと思っている野兎だったが、しかしながら、今回ばかりはそうもいかない。
いつもなら簡単な事後報告程度で済む喰鮫の任務なのだが(そこに野兎の意図があったことは最早言うまい)、今回の任務は少し事情が違うのだ。
「喰鮫さん、今回の任務の内容、覚えてます?」
「…?いつも通り皆殺しにすればいいのでしたっけ…」
「違いますっ!」
ほら、ちょっと気を抜けばすぐこれだ。
「今日の任務はそうじゃないって、何回も言ったじゃないですか!」
「あまり覚えていませんね」
「……皆殺しにはしませんよ、今回の任務は」
しれっとしてあまり反省した様子のない喰鮫に、野兎は込み上げる怒りを押さえ込みながら、言葉を続けた。
「最近になって頭角を現してきた大名がいるっていうのは覚えてますか」
「ええ」
「幕府の軍所の方からの依頼なんですけど…確か、奇策士さんでしたっけ。どうやらその大名さんが気に食わないらしいんです」
「なるほど」
「それで始末しろということです。あくまで隠密に。善良な使用人達は殺さぬように」
最後の二文を強調させて、野兎はそう言った。
任務の内容が任務の内容なので、かつこの任務が喰鮫に回ってきたがために、野兎は彼に同行しているのである。所謂、お目付役だ。
本当は…本来なら、蝙蝠や蟷螂辺りが担当するべきところなのだろうが、生憎彼らは別件で動いている。それだけなら野兎は、もっと別のしのびにこの任務を回しただろう…しかし、更に生憎なことに、喰鮫以外のしのびは、何故か皆出払ってしまっているのだった。
「あぁ――面倒ですね」
ぼそりと呟いた喰鮫の言葉が聞こえたが、野兎はあえて聞かないふりをした。
*
――それで、何故こうなったのだ。
野兎は冷たい床に座りながら考えていた。
この場合、野兎が好き好んでそのような場所に座り込んでいるわけではない――その最たる証拠に、彼女は轡を噛まされ、腕を背後の柱に縛り付けられていた。
ああ、喰鮫さんと任務に来れば、ろくな事がないってわかっていたじゃないか。
そうは考えども、結局は後の祭りである。野兎は先程の出来事を思い出して、轡で息が上手く吐き出せないので心の中で深くため息をついた。
喰鮫と野兎は、しのびの者と言えばしのびの者らしく、天井裏を伝って移動していた。
気配を殺して、野兎が階下の様子を探る。野兎がこの役を買って出たのは、喰鮫が階下に人がいると視覚した瞬間にうっかり殺してしまわないようにするためだった。
「…それなりに腕の立ちそうな武芸者がちらほらいますね」
天井の板をほんの少しずらして階下を覗いていた野兎が言った。
ですから、ここはやっぱり隠密に行きましょう。
そう結論を出して、顔を上げたときだった。
喰鮫の顔が目の前にあった。
「それはそれは、大変ですね」
表情は言葉と裏腹だった。ちっとも大変だとは思っていない。むしろ、何だか楽しんで…
そのとき、野兎の手首をぎゅっと縛る何かがあった。抵抗する暇もなく、そもそも頭が追いつかない内に足首も縛られる。
「――あの」
「どうしました、」
「喰鮫さんは、一体何をやっているんですか?」
「さて、何だと思います?」
にっこり。
すごく嫌な笑顔だった。
「退屈な任務かと思っていたら、案外そうでもありませんでした――いやはや、楽しいですね、楽しいですね、楽しいですね…」
「ま、まさか…」
「まさか、ですって?ええ、そのまさかですよ――」
――ああ、楽しいですね。
最後にそう言って、喰鮫は野兎を天井裏から叩き落とした。
――さて、参ったな。
野兎は、自分の前方に立っている三人のしのびを見ながら、そう考えていた。
彼らの装束は統一されているものの、見たことのないそれだ。多分、ここの大名の専属のしのび、というやつだろうと、野兎は推測する。
だからこそ、面倒だ。相手がどんな忍法を使うのかわからないし、…相手が、一体どんな拷問方法を知っているのか、わからない。
「…さて」
しのびの一人が、口を開いた。
「お前は、幕府からの刺客だろう」
その語尾に疑問符はなく、端的に事実だけを確認するかのような口振りだった。
どうして、それを知っている。野兎はそう思ったが、勿論表情には出さない。
「それを確認したかっただけで、お前に訊くことは特にないのでな、死んでもらうことにするが、いいな」
やはり疑問符はついていない。野兎に物を尋ねる気などないらしい。というか、そもそもこのしのびには、野兎に喋らせるつもりもないのだ。轡を外さない辺りから、それがしっかりと窺える。
とりあえず、野兎にはこのしのび達の意図が把握できた。つまり、幕府からの刺客を殺して見せしめにしてやろうという魂胆なのだ。
これでは、奥歯に仕込んでいる自決用の毒を使おうにも、使えない。こちらから死んでも、相手の手間が省けるだけだ。
体内に爆発物でも仕込んでくれば良かったな、なんて思っていたら、今度は別のしのびが口を開いた。
「しかし、無様なものだな。たったひとりでこのような場所に乗り込んでくるとは」
「………」
その言葉を聞いて、野兎は内心で笑ってしまいそうになった。どうやら敵さんは、もうひとりいることに、気付いていないらしい。
人間は優位に立つとよく喋るという性質からなのか、そもそもこのしのびの者固有の特性なのかはわからなかったが、ただ、よく喋るしのびだった。
「天井裏にいるところを、我らの仲間に見つかるなどと」
「………」
野兎はこの言葉を聞いて、ほくそ笑んでいた心の内に疑問を抱いた。
…我らの、仲間?
自分がこんな目に遭っているのは、他でもない真庭喰鮫のせいで、このしのび共など露程も関係がない。
なのに、どうしてこいつらは自分達の手柄だと思っている?
「………」
――あぁ、そうか。
野兎は、次いで、納得した。
納得して、それに足るだけの喰鮫に対する怒りが込み上げて来たところ、で。
「おや…てっきり拷問のひとつにでも遭っているかと思ったのですが…残念ですね」
残念ですね、残念ですね――と、自分の本心を隠すこともなくそう呟きながら、返り血に塗れた真庭喰鮫は現れた。
三人のしのびが気付いたところで、もう遅い。ひとりは既に喰鮫の鎖鎌の餌食になっていて、その体をどうと横たえた。
見れば、喰鮫は既に、肩にしのびをひとり抱えていた。それを地面へと転がしたところで、にい、と笑う。
残り二人。その内ひとりは、仲間が倒れたときに駆け出していた。けれど、目先の出来事に動揺していたのは間違いがないだろう。走り出すときに投げていた苦無は喰鮫に当たることなく、どこか見当違いのところへ飛んでいった。その苦無の狙いがきちんと定まっていたなら、少なくとも牽制にはなったはずだ。結果、喰鮫に二本とも鎖鎌を抜刀させてしまうだけの余裕を与え、駆けていたはずのしのびはいつの間にか動かなくなっていた。
残るのは、一人。そのしのびは、喰鮫ではなく野兎の元へと走った。柱に繋がれたままの野兎の首筋に、苦無がぴたりと当てられた。しのび相手に人質を取ったつもりらしい。
その行動に、喰鮫の動きが止まったので、しのびは気を良くしたようだ。動くなよ。そう言って、より強く、野兎の柔らかい皮膚に苦無を当てながら、反対の手で野兎の頬をつ、と撫でる。
最終的に考え出した策が、これか。
野兎は思わず失笑してしまいそうになった。自分もしのびの者なら、しのびを相手取るに当たってこれがどれだけ意味のないことかわかるだろうに。その取られた人質ごと殺してしまえば、それで済む話なのだ。
…だというのに。
――何をやっているんだ、喰鮫さんは。
野兎が訝るように見た喰鮫に、表情はなかった。
いつも奇妙な笑みを浮かべている喰鮫であったから――その表情の無い顔は、より一層奇妙だった。
「――ああ、汚らわしいですね」
やがて、喰鮫はぽつりと。
そう、呟いた。
「汚らわしいですね、汚らわしいですね――全く持って、汚らわしいですね」
そんな様子の喰鮫に、野兎を捕らえていたしのびは警戒したらしい。しのびの手が強張ったことが、しのびの持っていた苦無越しに野兎に伝わった。
「何が言いたい!?」
「何が言いたい、ですって?そんなこと、聞くまでもないじゃあありませんか」
そう言って、喰鮫はようやく笑った。誰もが、ぞっとするような笑みだった。
「私の所有物に、気安く触れないでいただきたいものですね――!」
――誰がお前の所有物だ、誰が!
そのとき、しのびは確かに何かを言いかけた。しかし、その言葉が紡がれることはなかった。
ひゅん、と風を切って飛んできた鎖鎌が、しのびの喉に突き刺さったからだった。
首に掛かっていた圧迫感が消え、倒れていくしのびを横目で見送って、これで敵は全員か、と考える。そして、野兎は前方の喰鮫を見遣った。彼の顔には、いつもの笑みが戻っていた。
「しかしながら、これも中々いい眺めですね」
などと、野兎を見下ろしながら言っている。ふざけんな。
野兎が喰鮫を睨みつけつつじたばたと暴れると、喰鮫は可笑しそうに笑いながらも彼女の口を塞いでいた轡を外した。
「ふっざけるなああっ!!」
彼女は、開口一番にそう言った。
「何なんですかあなたは!作戦があるんなら言ってください!いきなり私を縛ってほっぽり出して…あなたの趣味のために殺されたのかと思いましたよ!っていうか、私は!あなたのものじゃ!ありません!!」
「思っていたよりも元気ですね。何よりです」
「うるさいっ!」
野兎は喰鮫をぎっと睨みつけた。
…野兎を捕らえて敵方の面前に晒すことで、喰鮫はあたかもそれがこの家のしのびによるものだと偽装したのだ。騒ぎになっている間に、四人いたしのびの内ひとりを殺すことで、証人はいなくなる。多分きっとこの場にいた三人は、仲間のひとりが大名のところへ警護に向かったと思っていたのだろう。
「っていうか、もっとましな作戦があったんじゃないですか!」
野兎のもっともなこの叫びに、けれど喰鮫はにっこりと笑うだけだった。彼が何を言いたいのか、言葉を聞くまでもなかった。つまり、楽しみたかっただけなのだこの人は。
「しかし…その大名とやら然り、このしのび然り、随分と味気なかったのは残念ですね」
残念ですね、と繰り返す喰鮫に、野兎はがっくりと項垂れた。どうやら任務だけは果たしてくれたようなので、もういい。もうどうでもいい。後は喰鮫が余計な人殺しをしていないことを祈
るだけだ。
喰鮫が、野兎と柱を繋いでいた荒縄を切ったところで、その手を止めた。その様子を、野兎が首を傾げて見る。あと、喰鮫が縛った手首と足首の縄が残っている。この二つを切ってくれない内は、身動きが――
「………」
野兎の喰鮫を見る目が冷ややかになった。
「…これでは喰鮫さんを殴れません」
「それはそれは、残念です。しかし、私にしてみれば…こちらの方が、いいですね」
いつぞやのように、喰鮫は野兎をその両腕で抱えると、やはり楽しそうに笑った。
愉快犯の論理
10.04.25