私は、自分の頬の筋肉が、不自然につり上がっていくのを感じた。


「…蝙蝠くん、これはつまり、どういうことかな」
「見ての通りの状況ってやつ?そう怒んなよ、子猫ちゃん。」


蝙蝠は白々しくもそう言って、目の前の文机にでんと置かれた大量の未提出の報告書から視線を外せないでいる私の頭を、ぽんぽんと軽く叩いた。





ことの発端はそれだった。


私は今、この決して狭くはない真庭の里を駆け回っている。


報告書の提出を怠ったのは蝙蝠本人であることは明らかだった。どうして自業自得としか言いようがないそれを別件の報告書をまとめていた私のところへ持ってくる?遅れたのなら自分で鳳凰さんに届けに行って謝るべきだ。私に泥を被れと?自分の代わりに鳳凰さんに叱られろと?冗談じゃない!
そしてあろうことか、蝙蝠は私が抗議しようと立ち上がった瞬間、あの腹立たしい笑い声と共に逃走を図ったのだ。その蝙蝠を追いかけて外へ飛び出し、今に至る。


真庭のしのびはよく一人で任務をこなすと他方にも有名だったが、その影響か、この里のしのびはかなりいい加減なところがある。それに頭領も例外ではなく、寧ろその筆頭といっても過言ではないくらいだ。
いい加減な仕事をして自分で業を被るのならいいが、他人に迷惑を掛けるなと言いたい。


ああもう畜生!







「何やってんの?ちゃん」




蝙蝠をすっかり見失ってしまい(全く逃げ足の速い奴である)、それでも何とか捜し当ててやろうと、蝙蝠が行きそうな場所を考えていたところで、声を掛けられた。
高いところからの声は、そばにあった木の上から発せられていた。




「川獺先輩!」
「何か随分必死みたいだけどよ、人捜し?」
「蝙蝠を捜しています。心当たりありませんかね」
「悪いな、見てない」
「そうですか…」




わかっていたこととはいえ、少しだけ期待していた。
考えてみたけれど、やっぱり蝙蝠の行きそうな場所なんてわからない。今まで何度もこの鬼事紛いのことをしたけれど、完璧に撒かれてしまってから、私が蝙蝠を見つけ得たことなんて一度もなかったことを思い出す。このままいたずらに時間を過ごすよりは、押しつけられた報告書を片付けてしまった方がよっぽど有意義だろう。結局私が鳳凰さんに怒られるのか。そう思うと、自然と肩は重くなるけれど。




「い…いや、ほら、元気出せってちゃん。おれも一緒に捜すから」




よっぽど陰鬱な顔をしていたのだろうか。川獺先輩が若干慌てたようにそう言ってくれた。
その優しさに心が洗われるようだ。じーんと胸に響く感動を覚えながら、けれど、私は答えた。




「ありがとうございます川獺先輩…でもあれです。…蝙蝠捜すよりも押しつけられた報告書片付けちゃう方が効率がいいって思いました」
「……」
「それじゃあ私、とりあえず自室に戻りま…」
「そんなのおれがつまんねぇっつーの」




私の言葉を遮って聞こえた声は、川獺先輩のそれではなかった。はっとして顔を上げたときには既に遅し、視界に何かが木から飛び上がるのが見えて、次の瞬間には背中を地面に強く打ち付ける感触。




「おま…っ、蝙蝠か!」
「きゃはきゃは、いやーわかんねーもんだな。まさか騙し通せるとは思ってなかったぜ。あんた川獺の前だと随分しおらしいじゃねーか」
「よりによって川獺先輩に化けるだなんて…!」
「予想だにしなかったか?まずは疑って掛かるってもんだぜ、んん?」
「私の感動を返せばかやろう!」
「寧ろ感謝して欲しいくらいだ。良かったな、これでちゃんも少し賢くなったっつぅんだからよ」




それにしても、川獺先輩の口から蝙蝠の甲高い声が聞こえてくるというのは実に妙な感覚だった。正直言うとかなり気持ち悪いものがある。




「川獺先輩の顔でその声出すのやめろ!せめてどっちかに統一しろ!」
「じゃあご要望にお応えして」




ごきん、と、川獺先輩の首が妙な方向にねじ曲がった。
う、と漏らして、私は思わず顔ごと視線を逸らす。あんまり見たい光景じゃない。不快な音に、耳も塞いでしまいたいのだけれど、蝙蝠の手が私を地面に押しつけたまま離さない。腕の骨格を変えるときは、器用にも片手ずつ、もう片方の手で私を押さえつけたままだった。




「よいしょ、と…これでどうだ?」
「今からでも遅くないから川獺先輩に戻ってくれませんか」
「は?わけわかんねぇこと言うなよ」




どうせなら声を川獺先輩のそれにして、姿は川獺先輩のままでいて欲しかったと今更ながらに思う。私の要望はどちらかに統一してほしい、ということであって、蝙蝠の姿に戻れとは言っていない。
というか声を戻す方が簡単だと思うし、衣服のこともあるから、川獺先輩の姿でいたほうが良かったと思うんだ。
それに、眼前に見える顔が蝙蝠のそれだということがなんとなく不快だった。案の定却下されてしまったし、私の精神的な問題という意味でも、最初からそう言えば良かった。




「…そして退いて欲しい」




川獺先輩が蝙蝠になったり色々忙しかった目の前の状況だけれど、考えてみたら今の私たちの体勢は非常に妙なものだった。
私は地面に転がっていて、私の両腕は蝙蝠の両手にしっかり押さえられている。両足も蝙蝠がそれとなく自分の足で押さえているし、力で劣る私にはまるで抵抗の余地がない。
とりあえずは報告書以前の問題だ。この体勢を何とかしないと。


……蝙蝠、何故そこで笑う?




「何、おれが退くとでも思っちゃってるわけ?」
「いやうん寧ろ今すぐ退くべきだと」
「こんな風にを捕まえられることって中々ねーし、こういう機会は大事にしとくべきだとおれは思うわけよ」
「あんたの意見を求めてはいない」
「まぁ川獺の姿じゃあなぁ、こういうことしてもどうかと思うしよ」




もう嫌な予感しかしない。


なんでこんなことになってるのか、まるでわからなかった。蝙蝠はさっきからにやにやとした笑みを浮かべたままで、ともすればそれは確信犯のそれにも見える。
力関係で無理だとか、そんなことはどうだっていい。とにかくこの状況を、この流れを打破しなくては。
けれど、私の考えを読んだかのような蝙蝠の行動は、私の起こそうとしたそれよりもずっと素早かった。




がぶり、
思いっきり唇を噛まれた。




接吻だとか、そんな生易しいものではなかった。本気で噛み付かれた。恥ずかしいとかそういうこと以前に、単純に痛かった。血が!血が出てる!




「お、お前蝙蝠!何やってんだ!!」
その直後に通りかかった本物の川獺先輩によって(本気で奇跡かと思った)、私は救出されたわけだけれど。
それでもにやにや笑っていた蝙蝠の考えていたことは、わからず仕舞いだった。





結局報告書は、川獺先輩に手伝ってもらいつつも私が片付けるはめになった。一度のみならず二度までも逃走した蝙蝠を、今度会ったときはきちんと沈めてやらなくてはいけないと思う。


同じ轍は踏まないように、気をつけつつも!


差し向ける
10.01.31