女は、覆面で隠された口元を、僅かに歪ませる。鋭く殺意に満ちた瞳は、ただ目の前の男を睨み据えていた。
月を反射する瓦、その場所で、二人は対峙していた。仮面のせいで表情が窺えない、そんな男を目の前にして、女は思案する。
自分は、何かヘマでもやらかしたのだろうか。だからこいつが目の前にいて、だから自分はこうも追い込まれている?
「何なんです、あんた」
「『不答』」
細い脇差を逆手に持った女の呟いた言葉は、今対峙している男に向けられたものではなく、ただ自身に問うようなそんな不確かさを孕んでいた。
男に向けられた言葉ではないはずなのに、男は短くそう答えた。「あァ、そ」女は吐き棄てるようにそう言うと、再び胸の前で構えなおす。その姿は、最早満身創痍だった。
「安心しろ、お前が潜入で何か手抜かりをしたわけではない」
その言葉に、女は不愉快そうに眉を顰める。見透かされたような言葉に苛立ちを覚えたらしい。
女は男に飛び掛った。男は、腰に帯びていた刀の一対を抜き放ち、女の持つ刃を受け止める。力勝負では敵わないと一瞬で悟った女は、あっさりと退く。
ぎちり、女は歯を噛んだ。
「…なら、何であんたは私の前にいるんですか。他に何か?」
「強いて言うならば、姫さまの目にとまってしまった、それが運の尽きだったな」
「その姫さまって誰だか知んないですけど…、…死ぬ、んですかね、私。ま、構わないけど」
女は、緩やかにそう言った。
は、と吐き出すような口調だったけれど、頭の中で女は自らの死を覚悟していたのかもしれない。
そんな、女の表情を知った男は、それを踏まえて言う。
「あぁ、そうだ。一応、お前の名を聞いておこう」
それがただの気まぐれであるということを隠そうともしない男の態度に、女は不愉快そうに眉を寄せ、吐き棄てるように返答した。
「教える名前はないね――じゃあ、あんたの名前、教えて貰えます?」
「お前と同じ返答、だな」
その会話の後の女の動きは素早かった。決死の攻撃であることは明白だった。
不意を喰らったわけではない。女が速いのだ。男は避けようとしたが、間に合わない。咄嗟に持っていた刀で防ごうとするが――そのときには既に、女は目の前に、いて。
そして、女は言う。
「忍法・円転流」
*
すたん、と軽い音をたてて、野兎は地面に降り立った。
大きな屋敷の、その中庭である。そんなところに降り立って、通常ならば屋敷の者に見つからずにはいられまい――しかし、この場合に限っては、その心配は必要がなかった。何故なら、既に屋敷の者は皆死んでしまっている。
そして彼女は、地面と降り立ったそれとほぼ同時に気付く。近くに、自分以外にもうひとつの気配があることに。
「…あーあ、今回は誰にも邪魔されずに任務完了!って洒落込みたかったんだけどなぁ…」
うぬーん、と呻きにも鳴き声にも取れるようなそんな呟きの後で、野兎は空気に向かって呼びかけた。
「…隠れてないで、出てきてくれません?」
「『不忍』」
男が現れたのは、彼女が声を投げかけた位置とは正反対の場所だった。
野兎はその声のした方向をゆっくりと振り返る。緊迫したような表情は、そこにはなかった。
「私は初めから隠れてなどいない」
「『しのばず』…って、いやいや、本当に忍ぶ気ないんですね」
男の様相を見た野兎は、改めて男の言葉を咀嚼するようにそう言った。男はそれには受け答えせず、次の言葉を紡ぐ。
「お前が、『真庭野兎』か」
「当たりですけど…、…すみません、いつもなら此処で歓迎の言葉のひとつも述べるんですけど、今日はちょっと気分がのらないというか、ね、不忍仮面さん」
野兎は、その大きな目をやや細めて、男を見た。
隠そうともしない殺意が、その瞳にありありと浮かんでいた。
「あなたと私、昔会ったことありません?」
「奇遇だな。私もそう思っていた」
野兎の纏う殺気が、一瞬だけより強いものと変化した。
彼女は少し皮肉が混ざった声色で、言う。
「……、今回も、姫さまのご用事ですか?」
「ああ――お前がこの屋敷から盗んだ巻物を、姫さまが所望しておられる」
「そ、ですか」
どうせ目的はそんなところだろうと思っていたが、端から野兎に易々とくれてやるつもりはない。
野兎は強く地面を踏むと、一気に間合いを詰める。男は初めから見越していたように、動じる素振りは見せなかった。
強く、金属同士のぶつかり合う音が響く。
ただ、その音は刹那だった。野兎はあのときと同じように、一撃を与えただけで後ろへと引き下がる。
男はその一撃を吟味するようにすこし間を置いた後、口を開いた。
「『不変』…太刀筋がまるであのときと同じだ。あれから成長していないのではないか?」
「む、それってあなたにも言えることじゃないですか?不忍仮面」
そして、第二撃目。野兎はあのときと先程とまるで同じように、再び男の懐に踏み込む。
「ま、お互い成長したってこともあり得るんじゃないです、かっ!」
そして、先程の会話の合間、こっそりと腰帯から取り出したもの――先に刃のついた小さな竹筒を、男に向かって投げつけた。
男はそれに反応し、その竹筒を己の大小で払う。しかし――中に入っていた液体までは、防ぐ事ができなかった。
「刃は、囮ですよ――いい匂い、でしょ」
野兎はそう言った。
辺りに、甘ったるいような強い匂いが広がる。
野兎はそこで、にこりとも笑うことをしなかった。
その目はただ、真剣そのものだった。
「いい匂いですよね、…他の匂いが、もうわからなくなっちゃう程度には」
「…これは」
「大丈夫、毒薬なんかじゃないですよ。あ、でも仮面してて良かったですね。それ、目にはかなり沁みますから」
――確かに、と。
男の嗅覚は、既に失われたといってよかった。強い芳香を放つその液体を、まともに浴びたのだ。辺りにはその甘い匂いが充満しているように感じられる。
「不忍仮面さんが強いことは、以前のことでよぅっく知ってますから、念には念を入れていかなきゃなりません」
そう言って野兎が次に構えた恰好は、やや奇妙なものだった。
細い脇差を、空に翳すように、高く上げる。
「…以前と同じだと思わないでくださいね」
その構えは、1秒として続かなかった。構えというよりは、ただの動作である。野兎は高く翳していた脇差を、ひゅんと空に滑らせ振り下ろした。
「忍法・円転流」
野兎の姿が、闇に消えた。
、わけでは、ない。
野兎は、男の左肘の真下にいた。手にした脇差を鈍く光らせて。
男は繰り出された突きを、刀を盾にすることで防いだ。しかし、それは誰の目にも明らかに、辛うじて、である。
「気配を消すのは得意ですから」
口の端を笑うかのように歪めて、野兎は再び闇に紛れた。
――忍法円転流は、突き詰めてしまえばただそれだけの技であるのだ。
完全に己の気配を絶ち、彼女自身が経験で覚えた独特の歩行法を使い、相手の死角に立つ。
熟練したしのびの者であるなら、それは忍法とも呼べない。
しかし、それだけではない。真庭野兎は、それを、恐るべき速さでやってのけるのだ。
速いな、と男ですら闇へと紛れゆく野兎を見て思う。動きにまるで隙がない。男ほどの者であるのなら、絶たれたその気配を辿ることもできるのだが…それすらも許さない速さ。
――なるほど、それで、あの小細工か。
そして男は、野兎がまず男の嗅覚を奪った理由を悟る。気配は消せても、身についた血の匂いは、どうしても拭えない。常人の嗅覚は誤魔化せても、戦慣れした者の嗅覚は誤魔化せぬと知ってのことか、と。
「ならばこういうのはどうだ――」
相生拳法 背弄拳。
男はそう言って、姿を消した。
否――やはり、消えたわけではないのだ。
背後に確かに感じる気配に、野兎は実にあっさりと歩を止めた。
「背後を取る技…ですか。そんなのがあったんですね。確かに、これじゃ匂いも気配も関係がない」
「そうだ…しかし、正直驚いたぞ、野兎。以前とは技の練度も速さも桁違いだ。先程は『成長していない』などと言ったが、撤回しよう。
…さて、他にもまだ手の内があるのか?」
「……手の内、ねぇ…。
――別に、ないんですけど、…不忍仮面さんは、私の後ろにいるんですね?」
気配は自分のすぐ後ろ、零距離ではないけれど、まぁ大丈夫だろう、と。
野兎は、そう思考した。
「じゃあこういうのはどうですかっ――!」
野兎は、己が手にしていた脇差の刃を、くるりと反転させて。
それをそのまま、己の脇腹に突き刺した。
「!」
さすがに、想定外の行動だった。
男は刃と反対に横に飛び退いたが――しかし、遅い。野兎と距離をあけようとした男は、野兎が刀を突き刺した箇所の衣服が破れ、その場所からやや出血しているようだった。
そして、同時に野兎も、男と距離を取る。
「『不解』」
屋敷の屋根へと上った彼女に、男は呟いた。
「まるで理解し難いな、野兎よ――打開策は他にもあったはずだ。だというのに、何故お前はこのような行動に出た?」
「すみませんね、私の頭が足りなかったんですよ」
「――…その傷で、私から逃げられるつもりか?」
野兎の脇腹…自ら刃を突き刺したその場所からは、血液が流れ出していた。
滴るそれは、留まることを知らない。
男のそれとは比較するまでもない。
しのびは、まず任務の成功を第一に考えなければならないというのに。
先程は『頭が足りない』などと嘯いた野兎だが、しかしそれは方便に過ぎないだろうと男は考える。そんなわけがない。そこまで短慮な女ではないはずだ。
「さて、ね」
野兎はそれでも笑ってみせた。
全身に巻きつけた鎖の一本を己の傷口に、更にきつく巻きつける。一瞬痛みに顔が歪んだものの、それでも彼女は浮かべた笑みを崩さなかった。
そして、野兎は男に向かって何かを投げつけた。
それは決して敵意のあったものではなく、それは緩やかな孤を描いて男の手へと落ちる。
「あげますよ、それ」
「何がしたい?」
それは、男が本来目的としていた巻物だった。
「とりあえず内容はもう覚えましたから、いらないですし。不忍仮面さんのとこのお姫さんが欲しがってるなら、あげます。それで見逃してくれますよね?」
そう言う彼女の目は、嘘偽りなどない、彼女のままの瞳だった。
野兎は、続ける。
「私、まだ死にたくありませんから」
にこりと、野兎はそう言って笑った。
「――…変わったな、お前は」
「あんたは変わりませんね、ちっとも」
そんな風に、切り返して。
野兎は続けた。
「…てゆーかその巻物持って来いっていうの、ぶっちゃけ次善なんですよ」
最善は自分が無事で帰ること――だと鳳凰が言っていた辺り、実際その巻物も大したものではないのかもしれないな、と野兎は考えていたが、それを口にすることはなかった。
まぁ、それにも鳳凰の思惑があったに違いないので、野兎は、精々鳳凰を過保護だと思うに留めておく。
「じゃあ、これで失礼しますね」
そう言い終える前に、野兎は既に姿を消していた。
闇夜の生温い風が、男の結われた髪をただ擽った。
「…――」
男は、野兎を追わなかった。
野兎は、初めからまともに戦うつもりはなかったのかもしれない。巻物を渡すことも実にあっさりしていたし、元より逃げるつもりだったのだろう、そう思う。
既に野兎の去った場であり、否定姫の望む物も手に入れたというのに、男はその場から去ろうとはしなかった。
吹き抜ける生温い風をやや不愉快に感じながら、それでも男は動こうとしない。
――ひとつだけ、気に掛かることがある。
男は、考えていた。
――以前に彼女と殺し合いをして、今が二度目の遭遇だと彼女は言ったが、
果たしてそれは、真実なのだろうか。
そして、本人ですら意識せずして、男はひとつの名前を呟いた。
「…」
それは、昔…、否定姫のことなど露ほども知り得なかったころ、いつも自分の隣にいた少女の名前だった。
相生忍軍が、ひとりになる以前の、ふたり。
それが自分とその少女であったのだ、と――
そういえば、真庭野兎、そして何年か前に会った女、その本名は結局聞かなかったな、とそう思いつつ、男はようやくその場を後にした。
邂逅と既視
09.03.27