からりと晴れ上がった空には、たゆたう雲のひとつも見受けられなかった。

「はい、お待ち遠さま!」

精一杯の笑顔を振りまいて、私はお客さんのすぐ隣に団子の三本乗った皿を置く。旅客風の男の人は、どうやら相当の距離を歩いてきたらしく、その肌には玉のような汗がにじんでいた。男の人はありがとうと言って、串の一本を手に取る。
何で私が団子屋で働いているのかというのは、多分こういう笑顔が嬉しいからというのがその理由の大部分を占めているんだろうと思う。勿論、店主さんにお世話になっているということもあるけれど。
私は笑顔を向けてくれた男の人に自分もまた笑顔を返して、一旦お店の奥へ戻ろうとした。

振り向きざまの視界に傘の大きな影が映ったので、その動きは途中で止まってしまったけれど。

「精が出るな、殿」
「錆…、錆白兵さん」

私が名前を呼び直せば、目の前の色男は「錆で良いと言っておろう」と、特に気にした風もなくいつもの得意顔で言った。

「まあ、少しずつ距離を縮めていけば良いだけのことでござる」
「じゃあ私も少しずつ離れていくことにしますね」

そう軽口を叩けども、確かに何の気兼ねなく悪意のない軽口を叩けるような関係にまで縮められてしまったのは確かだ。
この錆白兵という人がこの小さな町にいつまでいる気なのかは知らないが、初めて会ったのはつい二週ほど前のことだ。それ以来、何が面白いのかこの人は何かあるごとに私に付きまとってくる。最初はそれがものすごく嫌だったはずなのに、とある事件をきっかけに別段気にならなくなってしまった。…いや、まあ、あのとき確かにときめかないわけではなかったけれど、うん…それはまた別の話だ。

「お嬢ちゃんのいい人かい?」
「断じて違います」

からかうように言ったお客さんに間髪入れずそう答えて、あれ…こんな遣り取り、前も店主さんとしなかったっけ。
まあいい、とにかく、他人の色恋沙汰にうるさい店主さんが出てくる前に、錆白兵さんには帰って頂かなくては。そう考えたところで、ふと店の周りが少し騒がしいことに気がついた。

その騒がしさにつられて視線を動かしてみれば、どうやら顰められた声の大部分は女のもののようだった。その視線の先には日よけのために番傘を差した錆白兵さんがいて、私は全てを納得する。そりゃあ、こんな色男がいればなあ。傘の影に隠れた彼の目は、そんな周囲のことなど気にも留めていないように涼しげに伏せられていた。
こんな暑い日なのに。

そのとき一瞬、私の視界がぐらりとぼやけた。
立ち眩みだろうか。私は誰にも勘付かれないように体勢を直すと、二、三度頭を横に振った。

殿?大丈夫でござるか」
「うん…大丈夫。大丈夫だから、とりあえず帰って…」

彼が店の前にいては、周囲の女で客も入りにくいだろう。店主のことはもちろん、そう考えてのことでもあったのだが、既に座っていた旅客の男の人は何を勘違いしたのか、「これは手強いねえ」なんてそんなことを言った。
それでも錆白兵は余程自信があるのか涼しい顔で、「またいずれ、拙者にときめいてもらうでござる」といつもように言ったのだけれど、その言葉すら後半はよく聞き取ることができなかった。

あ、これは、まずいかも。

そう頭が判断したときにはもう遅くて、私の視界は嘘みたいに真っ白に染まった。





覚醒した視界に映ったものを理解して、まず初めに思ったことは『どうしてこうなった』だった。

「目が覚めたでござるか」

私の真っ直ぐ目の向く先には錆白兵さんの整った顔があって、私は開かれたばかりの目をぱちくりと二回ほどまばたきさせた。

「え…っと」、状況が上手く飲み込めない。何で此処が見慣れた団子屋じゃないんだろうとか、どうして草のいい匂いがするんだろうかとか、どうして私が錆白兵さんの傘の下にいるんだろうとか、今枕にしてしまっているものは何なのかとか、何で彼の手が私の額にあるんだろう、とか。

「暑いのに無理をしたからでござろう。店主には許可を貰ってきた」

そう言って錆白兵さんは私の黒い髪をさらりと撫でた。汗をかいた後の気持ち悪さがないことから、随分と長い間この日傘の下…もとい、彼の膝の上に頭をのせていたのだろうと、私は慌てて起きあがろうとする。きっと錆白兵さんは暑さに倒れた私をこの木の下まで運んできてくれたんだろうが、こんな恥ずかしい状況は一刻も早く打破するに限った。
けれど、起きあがろうとした私の体を、錆白兵さんの細い腕が遮った。

「もう少し涼むと良い、まだ万全ではないでござろう」

その腕が細いことには変わりないのに、それは女性的な細さとは言い切れなくて…何て言うか、うっすらとついていた筋肉を見て妙に異性を意識してしまった私は、結局もう何も言い出せないまま、再び錆白兵さんの膝に頭を預けてしまった。そうだ、うん、これはその場の流れに逆らえなかった結果なんだ。

だからきっと、私の顔が妙に火照っているのも、彼の言うとおりまだ万全ではないからであって、
…何だか、私らしくない。
そんなことを思いながらも、私が妙な心地よさを感じていたのもまた、事実なのだった。


穏やかな風鈴たち
Dear 夜月様  11.05.05