「校倉さーーーーんっ!!」
こちらに向かって駆けてくる小さな人影があった。いや、駆けてくるなんて可愛らしいものじゃない。それは最早猪をも凌駕する勢いだった。もし今見えているあの人影が、船長を含め俺たちの思っている通りの人物であるとするなら、あれは曲がることも減速することも知らない。このまま衝突しては大惨事は免れないので、例によるなら、こちら側が横に退いて道を空けるしか方法はない。これが、たったひとつの打開策であるのだ。
射程範囲内に入ったところで、彼女(やっぱり思っていた通りだった)は、ばっと地面を蹴り上げて、冒頭で呼んだ名の人物に向かって勢い良く抱きつこうとした。
「………」
船長は何も言わずに打開策を実行した。
ずざざざざざざと砂利が擦れる音と、舞い上がる砂埃。
「…行くぞ」
船長は何事もなかったかのように、何も見なかったというように、周囲の船員に声を掛ける。
「いや、でも船長、これ放っておいていいんですか」
「いつものことじゃねぇか」
確かにいつものことだ。
俺はちらりと、地面に抱きついたまま離れない彼女を見遣る。擦れた地面に、相当の量の血液がこびりついていた。
「いや…痛くない、痛くはない…」
ぶつぶつと呟く姿が痛々しかった。
その姿があまりにも正視に耐えないものだったので、俺は地面に倒れている彼女――に、綺麗な布きれを渡してやった。俺たち船員は、こういうときのために傷薬やら何やらを大概持ち合わせている。「…いつも、すみません」その言葉に気にするなと返せば、「私が報われた際には然るべきお礼をさせてください」と、うつぶせのままの返事が返ってきた。
その報われた際というのが、一体いつになるのか、そもそもそんな時があるのかということには、触れないでおいた。
*
は、飛脚だ。
もう随分前に、この濁音港付近に行き倒れていたのを、船長が助けた。
それ以来、はそれはもう、船長にそっこん惚れ込んでしまった。
船長に対する突撃や待ち伏せは日常茶飯事、
こっそり船の積み荷に紛れていて危うく処分されそうになることもままあり、
この前に至っては無理に船長のあの鎧姿に抱きついて全治一月の大怪我を負った。
けれど、彼女はめげないのである。
『校倉さんのお嫁さんになることが、私の夢です』
それは難しいと、俺たちが何度言っても聞かない。
船長は船長で、もう半ば諦めているような節があるようで、が何を仕掛けて来ようとも、大概は「放っとけ」の一言で済ませてしまう。
けれどまぁ、そこは人の情というか、俺たち構成員は、その哀れな姿からか、中々彼女を放っておくことなどできないのだけれど。
*
「校倉さーーーーーんっっ!!」
本日二度目である。
彼女は本当にめげない。
「………」
無言の中に、船長の溜息が聞こえた気がした。
飛脚の仕事で培ったというその脚力で、彼女は弾丸の如き速さを持ってして船長のもとに跳んでくる。
例によって例の如く、船長はそれをよけた。
けれど、今回は場所が悪かった。
濁音港の波止場。かつ、船長は海に背を向けて立っていた形になるので、
ざばーん。
大きな水飛沫が上がった。
「……」
「……」
「……」
は上がってこない。
「…助けてやれ」
さすがにこのときばかりは、船長も鬼ではいられなかったようだ。
よせばいいのに
…あれ、
思わず、俺の口から声が漏れた。
夕暮れに染まる港、鎧海賊団の積み荷の入っていた木箱や何やらの影に、赤いものが見えた。
何かと思って近寄ってみれば、それはだった。
恐らく船長を待ち伏せしていたのだろう。小さな身体は、丁度箱と箱の影に隠れていた。
――寝てしまって、いるけれど。
無防備なその表情に、今日は一段と張り切っていたからだと納得しつつ、普段もこんなに大人しかったらなぁと考える。
そこで、はたと気が付いた。
木箱の間から見えていた赤いものが、船長の外套だということに。
…何だかんだで、船長もに甘い。
(とりあえずここは帰ることにした。きっと、夜になる前に船長が彼女を迎えに来るだろうから)
10.10.01