「……あの」
「拙者に何か用でござろうか」

しれっとそう言ってのける目の前の男に、私はため息をつきたくなる衝動を必死で押さえ込んだ。
今の会話だけを聞いていれば、確かにこの男の言うように、私がこの男に自主的かつ非後ろ向きな目的があって声を掛けた、という場面が連想されるかもしれない。けれど、それは違うとはっきり言っておく。これは不可抗力の一種だ。

「何か用って、それはこっちの台詞ですよ。どうしてあなた、私の後をついてくるんですか」

そうなのだ。
この男、数日前からやたらに私に付きまとってくる。

「ふ…決まっておろう。おぬしを悪漢から守るためでござる」

得意顔がまた綺麗に嵌っているからまた腹が立った。

「そうですか…って、納得できるわけないじゃないですか!どうしてそうなるんですか、どうして私は数日前道を教えただけのあなたに守られなくちゃならないんです!しかもどうして道を聞いておいたのにまだ此処にいるんですか!そもそも私、今までの人生、悪漢に襲われたことなんて一度だってありません!」
「まぁ落ち着け、一度には答えきれないでござろう」
「要は不満をぶつけたかっただけですから、別に答えなくていいです!!」

最後にそう言うと、私はふんっと顔を前へ戻して再び歩き出した。道行く人々が奇異の目つきでこちらを見ていて、居心地が悪くなった。

聞けばこの男、錆白兵と言って(錆と呼んでくれ、と言われた)、幕府の中でも信の厚い凄腕の剣士だというから、世の中不思議なものだ。いくら腕が立つといっても、性格に難がありすぎるじゃないか。どうして幕府はこんな奴を雇ったりするんだろう。

こうにも私を苛つかせているのは、さっきのあの出来事かもしれない、と私は思った。私は知り合いの団子屋のところでお手伝いをしているのだけれど、今日行ったら団子屋の店主さんに言われたのだ。
ちゃんのいい人かい?』
断じて違う。
店主さんがそう思っているうちは、その場にいるといつまででもからかわれること確定なので、私はどこへ行くでもなく歩き出したのだ。




「……あれ」

人々の視線から逃げるように歩いていたら、随分人気のないところへ来てしまった。
長くこの町に住んでいる私でも、あまり来たことのない場所だ。
気付いたところで、立ち止まる。

――あそこに行くのはやめた方がいいよ。
お友達の春ちゃんが言っていたのを思い出した。
何でも、春ちゃんのお友達が此処へ行ったきり、行方知れずになったんだそうだ。
結構前に聞いた話だけれど、どことなく不穏な空気を感じて、私は慌てて来た道を戻ろうと踵を返した。

けれど、後ろから「おい」と声を掛けられて、私の足は竦んでしまう。

「…何用でござるか」

錆白兵がそれとなく私を後ろへ庇って、男達に向かってそう言った。
私は背中越しに錆白兵と男達の遣り取りを耳にする。
ひどく、剣呑な空気だ。
怖くて、体が震えてしまいそうになるのを必死で押さえた。

「あん?お前に用はねぇよ。用があんのは後ろのねぇちゃんだ」
「この人に何の用がある」
「何って、なぁ?此処へ女が来るのは久し振りだからよぉ、用って言ったらひとつしかないだろ?」

下卑た笑い声が聞こえた。

「…!!」

無意識の内に、私は突かれたように走り出していた。後ろは見なかった。




相当走って、私は街道へ戻ってきた。
膝に手をついて、肩で息をしている私を、人々は奇妙な目で見ていたけれど、今度は気にしている余裕はない。
呼吸が落ち着いて来るのにつれて、脳に空気がが行き届いてゆくのがわかった。

どうしよう。どうしよう。どうしよう。

そうやってぐるぐるしていた頭の中が晴れていく内に、私は泣きたくなっていった。
彼を一人にして、さっさと逃げ帰った自分が情けなく感じたからだ。
あの人は私を庇ってくれたじゃないか。それなのに、何だ。私は、自分ばかり助かればいいと思って、恐怖のままに逃げてしまった。
なんだかんだ言って、あの場所へ足を運んでしまったのは友達の忠告を忘れていた私の責任だ。
このままじゃいけない、と思った。確かに彼に付きまとわれて迷惑していたのは事実だけど、それとこれとは話が違う。彼を捜さなければ。さっきのところへ行ったら、まだいるかもしれない。
そう思って、私は膝についていた手を本来の位置へ戻し、背筋を伸ばした。
…何よりも早く行こうということばかりに気を取られて、近道をしようとしたのが間違いだった。

――不意に、私の体が予想もしていなかった方向へ、強く引っ張られた。

「!!」

咄嗟に声を出そうとしたけれど、それよりも早く口を塞ぐ手があって、私はずるずると建物の陰へ陰へと引きずり込まれる。もがいたけれど、無駄だった。そこには明らかな体格差があって、私はそのまま少し行った先の、やや拓けた場所に連れ込まれた。
そこに、二人の男がいた。その内ひとりは、先ほど逃げてきた場所に、いた、

「ったくよぉ、手間とらせやがって」

私の口を押さえている、背後の男が言った。せめてこの手だけでも引きはがそうとじたばたしていたが、おっと大人しくしてろよ、と言われて私を捕まえている腕の力が更に強くなってしまっただけだった。

「にしても、あの男、すげぇ腕が立ちやがるから、抜け出すのに苦労したぜ」

今度は目の前の男が言った。先ほど見た男だ。その言葉から状況を察するに、こいつは錆白兵が他の仲間に気を取られている内に、こっそり逃げ出してこの二人と合流したのだろう。
男は、にやにやといやらしい笑みを浮かべて、私の顔を覗き込んだ。

「ねぇちゃんには悪いけどよ、俺ら金に困ってんだよ。最近はあそこらにも女が寄りつかなくなっちまってなぁ、全く儲けさせやしねぇ」

そして男はぺらぺらと勝手に喋り出した。要約すれば、こうだ。一人逃げ切った後、運良く私を見つけることができたので裏道から後をつけていたら、何故か急に私が踵を返し、また運良くこの男達が潜んでいた裏道を通ろうとしたので、そこを捕まえたと、いうこと。
そこまでを一気に喋り終えたところで、男は声を上げて笑い出した。私はさっきとは違う意味で泣きたくなった。つまり、この男は私をどこか、籠屋にでも売り払うつもりなのだ。

悔しかった。悲しかった。
涙が重力に堪えきれなくてこぼれ落ちてしまいそうになって、私はぎゅっと目を瞑った。せめてもの抵抗だった。


――しかしそのとき、男の笑い声が止んだ。てめぇ、と掠れるように男が言ったと思ったら、私を押さえつけていた力が急にふっとゆるんだ。
代わりにあった、私の背中を支えるように回された腕の感触に、え、と呟いて目を開くと、そこには私が置いてけぼりにしてきてしまった彼の姿があった。

「さ、び…」
殿、怪我はないでござるか」

掛けられたその言葉に、一度小さく頷くと、錆白兵は私をそっと地面へ下ろした。その一連の動作がとても優しかったのにも関わらず…いや、そうだったからなのかもしれない。私の目に溜まっていた涙が、思わずぽろりと落ちてしまった。

「先ほど一人逃したようなので追ってきたが、それで正解だったようでござるな」
「てめぇ、知って…!」

男は刀を構えていたが、すっかり及び腰で、虚勢にしか見えなかった。錆白兵はそんな男の様子を鼻で笑うと、腰に差していた刀をすらりと引き抜いた。
そして錆白兵は、一瞬だけこちらを向く。その目があまりに真っ直ぐだったので、私は胸の内の重みがすっと抜けていくような気がしていた。


「…拙者にときめいてもらうでござる」


背中、見ながら
10.04.07
(予定と全然違う話になったのでお題変えさせて貰いました。すみません)