ひゅん、と、彼の持つ短剣が私の米神を掠った。
空気の擦過に置いていかれた前髪が、ばさりと宙を舞う。嗚呼、これでまた不恰好な髪型になってしまったではないかと、私は舌打ちひとつ。彼は髪が元の長さに戻るまでの時間の長さを、その不恰好を晒すこちらの気を知らないらしい。半分ヤケになって彼に向かって短剣を投擲した。どうせ安物だ、折れようが曲がろうが失くそうが構わない。
彼にとってこの攻撃は想定外だったらしく、やや大袈裟に大きく避けて、私から少し距離を取った。想定外だって、そりゃそうだ。この局面で自らの得物を投げ捨てるなど、どう考えたっていかれている。けれど、結果的に彼の想定を上回ることが、私にも出来たということ。そのことに何故か少しだけ喜びを覚えた。
私はすぐに、背中につけたホルスターから予備の短剣を取り出した。この短剣は先程投げつけた物とは違って質の良いものだから、正直あまり使いたくなかったのだけれど。生活が危なくなったときに売っ払ってしまおうと考えていたのだけれど、そうも言ってられない。というより、今の私にとってはそんなことすらどうだって良かった。
たん、と地面を踏んで、腕に力を込める。お前には油断も隙もないのかと思わせるほどに完璧な反応速度で、彼はそれに対応した。耳障りな金属のぶつかり合う音。それしか聞こえない。
きん、きんとそれだけしか聞こえない金属の音を耳で受け止めながら、私は口を開いた。
「フォルカ、あんた、今誰に雇われてるの」
「答える必要はない」
単純な好奇心からの質問だったけれど、考えてみたら答えてもらえないのは当たり前のことだった。誰が己の主人の名前を、こうして敵対している者に教えるというのだろうか。
「あたしは、元老院に雇われてる」
その誰かさんは此処にいた。
雇われ暗殺者として最低のことをしたと思うけれど、罪悪感はなかった。あの豚どもは元から気に食わない。死ぬのなら死ねばいいと思う。というか寧ろ、そちらの方がありがたい。雇い主が死んでしまえば、私はまた自由の身、ってやつだ。
「あいつらが金をいっぱいはたいてくれるから、こっちは助かってるんだけどさ…、その分、人使いが荒い荒い。何が芸術品だっての、このままじゃこっちの身が持たないって奴だよ」
何せフォルカが喋らないので、自然と私の独り言のような形になる。
別に構わなかった。伊達にフォルカとは長い付き合いじゃない。彼の寡黙さくらいは知っている。
なので、私はフォルカの短剣を捌き受けたところで、彼が口を開いたことに些かの驚きを覚えた。
「…今回の仕事も、元老院からの要請か」
「…そうだよ?」
何が芸術品だ何が美しいものだ何が物の価値だ。全ては等価にいずれ壊れるものなのに、なんでそんなに飾りたがる?いずれ壊れるのはおまえの命だって同じ、おまえたちが平民と蔑みああはなりたくないなと考えている人たちだって全部等価。彼らがどんな幸福を持っているのかすら知らないで、おまえらは無駄にじゃらじゃらと飾り立ててそれの一体何が楽しい。本質の醜さまでは隠せないというのに。そしておまえらはその分無駄に命を晒す。どうして、そうやって飾れば飾るほど、わたしたちのような者に狙われるということ、が、わからないの。おまえらの最期ほど、醜いものもないというのに。
おまえらが私腹を肥やすために使っている金が、私たちにとってどんなに価値のあるものか、わかっていないんだ。たった1ゴールドだって、私たちにとっては、
――おまえらのために、私は好きなひととも殺しあわなきゃいけないんだ。
きぃん、と金属が弾かれるときの独特の音が虚空に響いた。
私のてのひらから飛び出した短剣は、くるりと舞って背後の土に突き刺さる。
確かに使い勝手の良かった短剣だったけれど、だからといって特に何の感慨もなかった。
「…やられた。私、もう武器ない。…殺していいよ」
驚くほど呆気ないものだった。
今まで彼とは幾度となく争ってきたけど(自ら望んだことは、一度として、ない)、それも今日で終わりのような気がした。
私が物を盗みに行った屋敷、そこに雇われていたのがフォルカだったのだ。
――おまえらのせいで、私は自らの手も汚さなくちゃならないんです。
それすら、別にいいような気がした。
フォルカが最後に殺してくれるのなら、べつに、全部、洗い流せるような気がしたから。
「……」
けれど、フォルカは動かなかった。
暫く無言で立っていた彼は、ようやく私に持っていた短剣を投げつける。しかし、それは人を殺すために投げたにしては酷く緩やかで、私は日頃の反射でついそれを手に取ってしまう。
「……持っていろ」
そしてフォルカは背を向けた。その姿はこの夜に溶けていってしまいそうな気すらした。
「…、状況が、いまいちよくわからない」
「それから、元老院とはもう組むな」
それだけ言って、フォルカの気配はなくなった。
私は、暫く手にした短剣を見つめ――それから、笑った。何故だかとても愉快な気持ちになった。
その日から、その短剣が私にとって他の何にも替え難い価値のあるものになった。
仕舞い損ねた鋭さ
09.03.10